三重大学50年史「ニュースレター」

 No. 2(1995. 12. 20 発行)

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ニュースレターの目次


本号の内容


50年ということ

    三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会委員長  上 野 達 彦

 時の流れが速いか遅いかは、それぞれの見方や立場によって異なる。もう50年が経ったか、まだ50年しか経っていないかの評価はさまざまであるにしても、大学創立から世紀の半分という歳月が流れ去ろうとしていることだけは確かである。この50年という時間が三重大学にとって何であったかを問う作業が2年前から始まっている。
 今年は戦後50年目にあたる。一つの節目の時間として終戦記念の日を中心にさまざまな催事が行われた。またこの50年を総括する論調もいくつか見られた。そこでは、価値観の崩壊、道徳観の流転、社会構造や産業構造の破壊などの言葉が活字としておどった。50年という時間をどのような切り口で語るにしても、いまわれわれの存在する時空が現状である。この時点から50年の間に何があったかを冷静に観察し、分析し、反省することを求めようとするのなら、50年目はやはり一つの通過時間であり、プロセスであるということを確認したい。
 三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会(以下記念誌刊行専門委員会と略)では、すでに10回を越える全体会議のなかで記念誌の編集や刊行方針、スケジュールなどを協議した。また記念誌刊行専門委員会の下には通史部分に責任を持つ編纂室委員会、さらに各部局にはそれぞれの編集委員会がすでに発足している。記念誌刊行専門委員会は、こうしたソフト面とハード面を定めた上で、1999(平成11)年5月31日の創立記念日の記念式典にこの記念誌を上梓することをめざして、編纂室委員会やそれぞれの編集委員会が業務計画を立てたり、原稿の割当量についての詰めや通史部分の年表を作成するなどの作業に入っている。
 ひとくちに50年といっても、それは人間の時間にとってやはり長大である。この間に起こった出来事を時系列的に羅列するだけでも、大変な労力を必要とする。さらにこれらについてできるだけ客観的な評価を加えるためには、多くの資料による裏付けを必要とするであろう。このため、多くの人々の協力なしにこの事業の完成はありえない。記念誌刊行専門委員会は、この事業の完遂に向かって委員各位の英知を結集し、多くの先輩や同僚と連帯しながら後世の批判に耐えうる記念誌をめざして鋭意努力を重ねているところである。
 なお一層のご協力をお願いする次第である。

                              1995年10月

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上浜キャンパス今昔

                 生物資源学部教授   市 川 眞 祐 

 一昨年、酒井一名誉教授から昭和7年10月発行の「三重高等農林学校要覧」の貴重な資料のコピーを頂いた。それは、ほぼA2版の大きさで両面印刷されていて、現在の「三重大学概要」に相当するものである。その内容は、沿革概略、教授摘要、設備、卒業者、主なる職員、校舎配置図等が記載されている。
 その沿革概要の冒頭に「大正八年政府ハ高等教育機関創設及拡張ノ計画ヲ樹テ第四十一帝国議会ノ協賛ヲ経其ノ一トシテ高等農林学校ヲ三重県下ニ設置スルコトニ決シ同年九月位置ヲ津市上浜町ニ定ム(以下略)」と記載されており、これが現在の上浜キャンパスの基となっている。当時の校舎配置図の一部を掲載させて頂く。
 この図は、本館の1階と実験室群等を示したもので、全て木造建築である。現存する三翠会館は、昭和11年開学10周年記念事業として卒業生の醵金によって建設されたものであるので、図に載っていない。建物の位置は、教育学部と生物資源学部の駐車場及びそれらの周りの道路付近であり、上方の熱帯植物室が現在の翠明荘の場所である。資料によると、職員定員は校長1、教授18、助教授11、助手2、書記6及び傭人39名の構成であり、校舎敷地が15,741坪、価格56,594円、建物が3,222 坪、価格596,244 円となっている。当時の実験農場を含めて上浜地区の面積は67,823坪である。発足当時は農学,農業土木学,林学の3学科で、各科40名の学生定員であった。現在では、敷地が526,110・、建物合計が210,303・であるので、それぞれを単純には比較できないが約 2.4、20倍となった。敷地や建物の価格は、昨今のそれと比べて桁の違いに驚く。因に昭和7年の授業料は年間80円であった。
 昭和33年農学部入学の筆者にとっては、この資料を見て非常に興味を覚えたと同時に懐かしさで一杯になった。1年次に寄宿舎(三翠寮、学生部の裏に位置していた)で1年間過ごし、2年次後期より図の校舎で専門教育を受けた。我々の学生時代は5学科となっていたため、若干の増設がなされていた。昭和34年9月伊勢湾台風の直撃を受け、校舎の屋根瓦の大半が吹き飛ばされ、暫くの間授業が出来なかったことをつい最近の出来事のように思い出される。以来、暴風警報が発令されると、休講措置が取られるようになった。

三重高等農林学校校舎配置図

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工学部創設時の回想

         三重大学名誉教授・大同工業大学教授   葛 原 定 郎 

 三重大学は平成11年に創立50周年を迎えることになり、お目出度く存じます。大学では記念事業委員会の下に、記念誌刊行専門委員会を作って、記念誌を発行すべく準備を進めておられるようですが、この度、工学部の委員から、工学部も創立30周年を迎えるので、創設時の状況なども含めて一筆書いて欲しいと、ニュースレターへの寄稿を依頼されました。大学全般及び各部局の詳細な記録はいずれ記念誌に発表されるでしょうから、ここでは若干の資料から私の乏しい記憶をたどって、30年近い昔を振り返ってみたいと思います。
 私は三重大学発足翌年の昭和25年(1950)から当時の農学部にお世話になり、工学部創設2年目(昭・45)に移籍となり、平成2年に退官しましたが、引続き工・教・生物資源の各学部で非常勤講師を務めてきました。言うなれば私は一生を三重大学の発展の中に過ごさせていただいたことになり、その変遷ぶりを初めは内において体験し、ここしばらくは外から拝見させていただくという幸運に恵まれております。
 さて、工学部創設時の状況について的を絞ってみると次のようになろうかと思います。
 昭和30年代、日本経済は戦後の復興期から高度成長期に入り、各大学において工科系学部や学科の新増設が盛んに行われた。三重県においても北中勢を中心とした工業生産の飛躍的増大に伴って「地元の三重大学にも是非工学部を」という強い要望が起こり、県と産業界が主となって工学部設置期成同盟会が組織され、一方、大学においても昭和35年に評議会において、設置が決議された。しかし、この時期には鈴鹿に工業高等専門学校を誘致する話が進んでいたことや、全国的には工学部設置のピークが過ぎていたことなどもあって、事は容易に進展しなかった。その後関係方面の非常なお骨折りによって、やっと昭和44年度の政府予算案で三重大学工学部の設置が認められたが、またまた国会が荒れたために、予算が成立したのは年度明けの6月9日(同日施行,4月1日適用)であった。工学部はやっと呱呱の声をあげることができ、まず初年度として、機械工学科と電気工学科の2学科でスタートすることになった。
 以上のような訳ですが、設置の詳しい経緯については、三重大学工学部創立10周年記念誌(昭・54・6・9)に、設立前後の沿革,学科の紹介のあとに、当時の県知事,学長,設置準備委員等の先輩各位の思い出として寄稿されております。また、学園だより第1号(昭43・6・15)から第16号(昭45・10・31)にかけて、設置計画から誕生後の状況が順次報告されております。
 第1回生の入試は6月20日過ぎに実施されましたが、この年度の入試に失敗していた受験生にとっては思いがけないチャンスが到来した訳で、全国各地から集って、競争率は20倍くらいではなかったでしょうか。入学が遅れた分は夏休みを返上して授業が行われ、翌年には三つめの基幹学科として、工業化学科が設置されました。
 ところでこの時期の前後は、全国的に学園紛争が蔓延しており、三重大学においても寮問題が発端となって学内が荒れており、工学部生も入学早々に騒動に巻き込まれることになりました。満足に授業ができない期間もありましたが、やがて学内も平穏化に向かい、昭和48年3月には第1回卒業生を送り出すことができました。学園だより第1号に、当時の教・農2学部の上浜地区統合による三重大学総合計画鳥瞰図が、海側に向かって描かれていますが、その右上のところに(11)工学部(予定)として校舎が示されています。現在の総合グラウンドや工学部の場所は民有の畑地であったが、県が先行取得の形で埋立を始めており、土を満載したダンプトラックが埃をあげながら毎日のように走り回っていたものでした。
 工学部が計画どおりに、この場所に根を下ろして30年の時を刻んできました。幾多の変遷はありましたが、今日では、博士課程の工学研究科をもち、学内で最多の学生数を擁する学部に生長し、卒業生も大学院を合わせて6000名余を数えるまでに至ったことは、ご同慶の至りです。正面玄関の前には、講堂“三翠ホール”が建ち、周辺も整備されて、工学部も面目を一新した感があります。
 初代学部長の井町先生は別格として、創設直後の教官は全員40代半ば以下でしたが、みんな張り切っていました。途中で他の国公私大へ移った人も含めて、すでに退官(職)した人もあり、残念乍ら鬼籍に入られた方もあります。一方、当時の教官で現役で活躍されている方もあり、卒業生で母校の教育に携わってくれている人もあって心強い限りです。
 30年は短いようでやはり長い時間です。歴史の一つの区切りかもしれません。三重大学と共に、ますます発展することを祈ります。

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三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会 委員一覧表

所属部局職名氏名
人文学部教 授上野達彦
教 授小川眞里子
教育学部教 授市川千秋
助教授宮崎 清
医学部教 授中野勝磨
教 授坂倉照
附属病院教 授櫻井 實
教 授宇治幸隆
工学部教 授社河内敏彦
助教授太田清久
生物資源学部教 授市川眞祐
教授菅原 庸
医療技術短期大学部教 授伊藤彰男
一般教育教 授濱森太郎
事務局庶務部長西山義昭
学生部次 長大城俊彦
附属図書館事務部長中島通昌
編纂室名誉教授酒井 一

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資料発掘のお願い

 三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会は、三重大学の半世紀の記録を収集するために、資料の発掘作業をおこなっています。このための資料・写真などをお持ちか、また所在をご存じの方は、上記の委員または下記にご一報いただければと存じます。

三重大学附属図書館内 50周年記念誌編纂室 内線2213(横井)

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< No. 2 1995年12月20日>
三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会・同編纂室委員会発行
津市上浜町1515 TEL 0592-31-9660
第2号担当委員:社河内敏彦(工学部)市川眞祐(生物資源学部)