三重大学50年史「ニュースレター」

 No. 5(1997. 1. 10 発行)

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ニュースレターの目次


本号の内容


三翠キャンパスと応援歌

     三重大学 学生部長  飛岡次郎(生物資源学部教授)

 三重大学もまもなく開学50周年を迎えようとしています。これを記念して開学50周年記念誌を発刊するため、平成5年12月に刊行専門委員会を発足させて編集業務が開始されました。この刊行専門委員会のもとに編纂室委員会と部局編集委員会が置かれ、それぞれの委員会委員各位の多大の御尽力により、編集業務が順調に進められておりますことを、心から喜びたいと思います。
 刊行専門委員会が発足当初、筆者はこの委員会の委員長を務めさせていただきまして、記念誌の編集・刊行の基本方針、編集組織、各委員会の役割、編集方針や編集・刊行のスケジュールなどの御審議をお願いしましたが、委員各位の特段の御協力と全学的な御支援のおかげで、編集業務を軌道に乗せていただくことができまた。深く感謝いたしますとともに、記念誌の完成を楽しみに期待しております。
 この度、刊行専門委員会から何か一筆書くようにということで、ニュースレターへの寄稿を依頼されました。ここでは、かつて三重大学のキャンパスで学んだ者の一人として、キャンパスや応援歌のことなどを記してみたいと思います。
 三重大学のキャンパスは、全国国立大学中でも、たいへん恵まれた環境のなかにあり、教職員の皆さんや学生諸君から「三翠キャンパス」の名で親しまれている。しかしながら、学生諸君などにこのキャンパスをなぜ「三翠キャンパス」と呼ぶのかとたずねると、ほとんど正解が返ってこないようである。この「三翠」という名は、三重大学の前身の一つである三重高等農林学校(大正10年12月設置。以下、三重高農という。)の校歌(尾上柴舟作詞・弘田龍太郎作曲)の第一番

 み空のみどり樹のみどり
   波のみどりの国原に
  いましめかわし睦みあひ
    つどへるわれら健男児

のなかにある「み空のみどり、樹のみどり、波のみどり」の三つのみどり(翠)に由来しているということを、今から43年前の昭和29年4月、本学に入学した時に教えられた。「三翠キャンパス」は、三重高農がこの地に設置されてからすでに75年もの歳月を経たことになるのである。
 このような長い歴史をもつ「三翠キャンパス」のなかには、これにちなんで翠の字のつけられたものが実に多い。例えば、昭和11年に三重高農開学10周年記念事業として、当時の卒業生の貴重な醵金によって建設された木造建築の「三翠会館」、「三翠同窓会」とその会報「三翠」、「翠陵会館」、「翠明荘」、新しいところでは全国国立大学屈指の講堂「三翠ホール」などなど……である。
 かつて、筆者は文部省在外研究員として、カナダのプリティッシュ・コロンビア大学やアメリカ合衆国のワシントン大学に滞在したことがある。これらの大学のキャンパスでは、自然林や天然の樹木なども活かして、みどり豊かで快適なキャンパスづくりに努められていた。本学においても樹のみどりが、さらに一段と色濃くなっていくことを望みたい。
 三翠といえばすぐに連想されるのが「三翠応援歌」である。この歌は、もと三重高農校友会応援歌として作られたものである。

  緑したたる束海の
   伊勢湾上に波揺ぎ
    金色の洋らんらんと
     昇る朝日の勢のごと
   血潮に燃ゆる健児等が
    結びてここに三百名
     意気は天を沖すなり
      ・・・・・・・・・・

 この応援歌の作者は、三重高農林学科第4回卒業生(昭和3年3月卒業)黒井良勝氏(故人)である。当時から70年もの間、愛唱され歌い継がれてきている。いつの頃からか「結びてここに…」が「集いてここに…」と歌われるようになって現在に至っている。
 三重高農時代は「結びて(集いて)ここに三百名」でよかったのであるが、筆者が在学中はそれが「八百名」となって、駅伝大会やクラス対抗試合、他大学への遠征時、あるいは森林演習などでクラス全員が演習林の宿合に泊った時などによく謳歌したものである。現在では、この応援歌がクラプ・サークル活動の壮行会をはじめ、いろいろな機会に全学的に歌われている。本学のクラブ・サークル活動が紹介されている「CLUB・ACTIVITY」や三重大学体育会応援団新聞「翠ケ丘」などでは三重大学応援歌として掲載されている。つまり、「結びて(集いて)ここに7千名」の応援歌になったのである。ここにもすばらしい発展を遂げた本学の歩みの一端がうかがわれる。
 長い歴史と伝統の重みをもつその基礎の上に、これを継承し21世紀を展望した新しい三重大学の創造が望まれる。開学50周年記念誌は、そのために限りなく大きい役割を果たしてくれることであろう。

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青年期を迎えた工学部

     三重大学 工学部長  澤 五郎

 三重大学工学部は昭和44(1969)年4月に創設され、今年で27年目を迎えました。人間に例えれば、創設時に生まれた人は丁度大学院博士課程を修了する年齢に当たります。それと軌を同じくして平成7(1995)年工学研究科博士課程が設置され、組織的にはようやく一人前の工学部になった感があります。工学部の創設時の状況については名誉教授葛原定郎先生が本誌ニュースレターNo.2,(1995.12.20)に生き生き回想されています。また、創立10周年記念誌(1979.6.9)にも創設前後とその後の10年問の状況が記録されています。ここでは、工学研究科博士課程設置に至るまでの状況を中心に振り返ってみることにします。
 大学には、学術研究の高度化と創造性豊かな人材養成という根元的な要求と共に、最近は、国際的貢献、大学の開放と地域との連携など様々な要求があります。これらの要請に応えるためには博士課程の設置が基本であるとの認識にたち、本工学部の創設以来今日まで約4半世紀にわたって、まさに博士課程設置が悲願でありました。そのために、まず、その基盤として学部の整備が必要となり、社会や科学技術の変遷に合わせて、表に示すように、昭和の終わり(l969)のころまでは細分化された新学科の増設の形で、それ以後は大学科、大講座制への移行など学科の統合改組による総合化を図りながら行われました。博士課程設置後、現在概算要求中ですが、全学の教育改革の一環として、平成9年工学部では物理工学科の新設と情報工学科の学生定員増を含め再び全学科の改組を行う予定となっております。
 工学系で博士課程設置の要望が強くなったのは約20年前の昭和50(1975)年代になってからであります。既に博士課程のあった旧帝大など8大学を除いた工学部が集まり、国立大学47工学系学部長会議が始まったのは昭和5l(l976)年でありました。また、連合大学院も視野にいれて、東海地区国立大学工学系博士課程懇談会が作られたのも昭和5l(1976)年7月であります。これには現在は7大学が参加し大学院を中心とした情報交換を行っております。それから10年後の昭和60(1985)年頃まで工学系の博士課程の設置の形態として(1)連合大学院(2)いわゆる総合大学院(又は独立研究科)(3)工学研究科の3つの形が考えられておりました。昭和60(1985)年になって名工大、横国大に改組積み上げ型の工学研究科が設置されて以来、工学系の博士課程は、工学研究科と総合大学院の2つの形に絞られてきました。三重大学内では、昭和59(1984)−60(1985)年総合大学院自然科学研究科(博士課程)設置検討委員会で検討され、これは後に平成3年の生物資源学研究科の博士課程設置につながりました。工学部内では、工学部将来計画委員会、工学部博士課程設置検討委員会、工学部博士課程設置準備委員会等と検討組織は変遷してきましたが昭和60(1985)年頃、形態としては工学研究科博士課程の方向に固まりました。記録によるとそれより前の昭和58(1983)年12月に既に物質工学専攻とシステム工学専攻の2大専攻案がまとめられておりました。それから約12年経て設置に至った訳ですが、名称は多少変わったものの、その基本構想は一貫しており、変化の激しい情勢の中にあって先見性のある長期展望ができたものとして自慢できるのではと思っておりまず。
 本博士課程は標準修了年限2年の博士前期課程と3年の博士後期課程からなるいわゆる区分制の博士課程であります。修士課程に相当する博士前期課程は平成元(1989)年-3(199l)年に新設改組してきた工学部の学科のうえに積み上げた機械、電気電子、分子素材、建築学、情報の5専攻から構成されております。博士後期課程は工学部の歴史的特徴と学術研究の将来を展望して総合化を進め、材料科学専攻とシステム工学専攻の2大専攻で構成されています。l専攻6名計l2名の定員に対して、現在、社会人、外国人留学生を含めてl年次36名、2年次l8名が在学しています。
 これまでは博士課程設置の目標のもとに、平成3(1991)年の大学設置基準の大綱化を機に始まった自己点検評価も学部改革も学部全体が一致協力して非常に円滑に行われてきたように思います。研究でも明確な目標を持つということが極めて大切でありますが、工学研究科という組織にとっても目標の設定が極めて大切であることを物語っているようです。21世紀のわが国は大学院の発展にかかっていると思われます。平成7(1995)年11月成立した科学技術基本法及び平成8(1996)年7月閣議決定された科学技術基本計画は、社会の悲痛な叫びとして新しい意味での科学技術の振興が希求されていることを反映したものと思われます。工学部では、真に人類のための新しい科学技術の発展を展望し、例えば、人問の感性を対象としたり、感性を科学技術の発展に活用したりする感性理工学独立専攻設置等の新しい発展に向けて努力しているところです。これらが、また、10年後にそれが問違いでなかったといえることを願っています。
 以上の経過の中には、人文学部、医療技術短期大学部や生物資源学研究科博士課程などの大きな新組織の設置がありました。そのようなことのなかった他大学と比較すると、それらは本博士課程の設置に確かに影響を及ぼしたことが分かりますが、逆に本学部・本研究科の発展が他学部・他研究科に影響しているのも事実と思われます。これらはお互い様と言う感じにとられがちですが、学術研究の進展の方向からみても、むしろ、各学部の発展の鍵は三重大学の総合的発展に懸かっていることを認識すべきではないかと思います。肝心なことは、時機をえたとき、関係部局等が責任を持って計画を誠心誠意迅速に実現することと、全学がそれを全力で支援することと思われます。三重大学の将来の発展に向けて、このような観点で振り返ることも三重大学開学50周年記念を意義あるものとするのではないでしょうか。最後に、言うまでもなく博士課程設置は諸先輩はじめ大学・学部内外の多くの方々の長年にわたるご尽力とご支援によるものであり、ここに深く感謝の意を表します。

三重大学工学部 拡充改組経過・計画の概要

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第二農場の前身と経過

     三重大学 名誉教授  松島二良

 第二農場は最初第二拓殖訓練所(通称拓訓)として昭和8年、現在の安芸郡河芸町および鈴鹿市にまたがる地に開設された。それまでこの地域は国有林であったものが、払い下げられて地元の人達による開拓が始まっていた。
 この辺りは当時『お花狐』といわれる狐が出没し、特に食物を持って夜通る人を化かしてその食物を巻き上げるという噂があったくらいに人里離れた所であった。私の父はこのうち13へクタールの払い下げを受け、地元の人に頼んで人力で開墾を始めた。しかし、開墾した後から草が追いかけてくる始末で、父は非常に苦慮していた。
 丁度当時国策として満蒙開拓が進められ、三重高農に第二拓殖訓練所が設けられることになり、高農はその土地を探していたが、結局適当な土地を借りることになった。その場合多くの人から少しずつ借りるのは煩雑なこともあったようで、私の父1人からまとめて8へクタールを借りることになった。そして三重高農の新鋭トラクターによる機動力開墾によって拓訓Iの完成をみたのである。
 開墾や現場の指揮には清水敦先生(故人)が当たられたので、先生は時には私の家に寝泊まりされてのご奮闘であったし、この機動力開墾は地元の人々に三重高農の力強さを深く印象づけた。小学生にもなっていなかった私にもその光景や、先生のご活躍の姿の記憶があるが、さらに我が家で先生と一緒に風呂に入ったこともあり、先生の胸毛の立派さにも驚いた思い出がある。後年大学の新農場なった後も当時のトラクターが保存されているのを見て大変懐かしく思ったものである。
 戦後満蒙開拓は廃止され、拓訓は果樹を主体とする農場、すなわち第二農場として生まれ変わった。その後昭和30年代半ば、第二農場の土地は三重大学が買い上げることになり、さらに昭和45年新農場が高野尾に開設されるに当たり、その機能を閉じた。しかし、新農場の果樹が英習に使える成木になるまで、実習の場となっていた。そして私が定年退職後暫くして国際大学に譲られることになったし、その周辺も千里団地などの見違えるような住宅地に変わっていった。
 以上の経過に関する先生方の思い出を加えたい。拓訓については他の方も記される予定であるし、また『三重大学農学部創立50周年記念誌(1972)』にも少し記されているが、私の思い出は農場主事の郷原保先生(故人)のことである。拓訓はいろいろな面で鍛練の場に使われ、たとえば三重県下の中学校や女学校の校長、教頭先生をここで一定期間鍛えたのである。その指導は郷原先生であった。早朝の便所掃除から始まるその鍛え方は語り広められ、中学生鍛練の手本とされた。この意味で当時の県下の中学生もすべて三重高農、そして郷原先生の薫陶を受けたことになる。
 第二次農場になってからは主として果樹の剪定実習が行われた。電車またはバスで千里駅まで行き、そこから約30分歩いて農場に着く、剪定実習は必ず12月から1月の厳寒期に特別実習として行われ、鈴鹿おろしの寒風が吹く中での手作業である剪定実習は、学生、職員ともに最も辛い実習の一つであった。このような中で昼食に温かい豚汁が給されたが、これを作っていただいたのは中河留蔵先生(故人)の奥様であった。その温かさを覚えてみえる方も多いであろう。

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資科発掘のお願い

 三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会は、三重大学の半世紀の記録を収集するために、資料の発掘作業を行っています。このための資料・写真などをお持ちか、また所在をご存じの方は、下記にご一報いただければと存じます。

三重大学附属図書館内  50周年記念誌編纂室  内線 2213

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<No.5 1997年1月10日>
三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会・同編纂室委員会発行
津市上浜町1515 TEL 059-231-9660
第5号担当委員:市川眞祐(生物資源学部) 社河内敏彦(工学部)