三重大学50年史「ニュースレター」

 No. 8(1997. 11. 14 発行)

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ニュースレターの目次


本号の内容


大学と地域社会との連携

                  三重大学 副学長  妹尾 允史

 最近、インターネットでアメリカ西海岸の著名な大学のホームページを覗いたところ、最初のページにこの大学の使命として3つの項目、Teaching,Research,Community Serviceが掲げられていた。社会が大学に期待する役割は、三重大学創立当時の50年前と今とではかなり変わってきているし、21世紀にはもっと大きな変化があるように思われる。古くは空海も学んだ(1年で中途退学したらしいが)8世紀奈良時代の官僚育成の大学、ヨーロッパ中世の大学の原点としての12世紀イタリアのボローニャ大学など、大学の理念が教育と研究を中心とするアカデミズムにあることには変わりない。しかし、その内容・目標・役割などはその時代の社会的背景と共に、その都度見直しが進められている。三重大学でも一般教育課程と専門教育課程の統合による4年間一貫教育として教育課程の連続性を重視するとともに、初学年向けのセミナーとかチュートリアル制度を導入して少人数教育の実施、あるいは3年次編入学、社会人の入学、生涯教育、職業高校からの推薦枠など、入学制度の多様化、個性化も進んでいる。今や、三重大学創立50周年の節目を迎えて大きな転換期にさしかかっているように思われる。
 近年の大学に対する期待では、人類の文化と進歩に貢献すべき普遍的な人材育成と研究活動という従来の役割の他に、もっと直接的な教育・研究成果の社会的還元として、地域社会との連携とサービスということが大きく叫ばれるようになってきている。社会人向けの公開講座の実施はもとより、大学の諸施設、研究設備を民間に開放するとか、キャンパス内に民間の研究所を誘致して共同研究を実施するなどの緊密な連携が求められている。
 三重大学では、1993年度から3年間にわたって国連地域開発センターと三重県を含む共同研究『アジアの地域・自然環境と開発に関する国際共同調査研究』が全学的規模で実施され、地域社会との連携として大きな成果を挙げた。また、これを引き継ぐ形で昨年度からは本学を中心に三重県内の高専・短大を含む15の高等教育機関と三重県との間で共同研究が企画され、『伊勢湾地域の総合的な利用と保全』など6件のテーマが実施された。通常、共同研究といえば科学技術を主とする理系が中心となり易いが、このプロジェクトでは行政に関連する分野も多く、文系の教官が多数参加している点でも特徴がある。今年度は津市も参加する形で10テーマに拡大され、来年度からは伊勢市の参加も検討されるなど、着実に地域との連携が強化されようとしている。このような共同研究等の三重大学における受け皿として、1991年に地域共同研究センターが設置され、また1995年には三重大学将来計画委員会の中に『社会的協力・連携の在り方に関する調査委員会』が設けられて、地域社会への積極的な協力支援活動が続けられている。

地域共同研究センターの写真
地域共同研究センター

 大学と地域社会との連携を考えるとき、普遍的な学問の中から地域に独特な状況を抽出してどのように応用するか、また逆に学問の普遍性のなかに地域の特殊性をどのように活かすか、という興味深いが多少やっかいな問題が生じる。たとえば、三重県は自然環境に恵まれた風光明媚な地であり、かつて伊勢神宮を中心に東西文化の交流地として栄えた地域でもあり、最近は大気汚染などの公害対策先進県としても知られているので、自然環境と人工環境の問題は三重大学における地域連携の重要なテーマとなる。この中で、環境計測、エコロジー、リサイクル、廃棄物対策、エネルギーなどの要素技術は、普遍性を持った科学技術の対象になり易いように思われる。しかし、環境問題自体は先進国と開発途上国、国全体と地域社会、あるいは社会と個人などの利害関係に見られるように、それぞれの国とか地域の文化・文明、あるいは個人の価値観・好みを満足させながら全体としてのコンセンサスを作り出すことが大きな課題である。
 また、環境に限らず、さまざまな要素技術自体にしても、人々にとって望ましい技術とは何か、科学技術の鰯熟した転換期に当たって優先順位の高い技術とは何か、ということを考えると、地域の歴史文化、風俗習慣、生活形態、価値観、生きがいなどが、技術の方向に対して大きな影響を与えることになる。つまり、人間のための技術には本来的に地域性があるということにもなる。したがって、その地域に適合した技術を模索、発展させるためには、理系、文系を問わず広い観点での総合的な地域研究が不可欠であり、このような要望に対する地方大学の役割は極めて重要なものとなっている。その一つのステップとして、三重大学では伊勢湾文化総合研究センターの構想が練られており、地域社会との連携を推進する上でも早期に設置されるよう期待している。

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時の流れの中の化学技術雑感

                   工学部教授   神谷寛一

 三翠に恵まれたキャンパスの海辺の片隅で、「知」の伝承と「知」の創造の手法の教育だけはおろそかにはしないように努めること、それだけに精一杯で、大局的な立場から大学の歴史作りに積極的に参画しているとはとても思えない私が、このレターで何か言うのは場違いとは思いますが、三重大学50年の時の流れのうち、半分以上をそこで生息してきた小さき巳が、歩んで来た道を自省の念をこめて振り返って見る良い機会を与えられたと考え、専門である「化学」と「化学技術」の観点から思っていることをとりとめもなく綴ってみたいと思います。
 私は、いわゆる「60年安保」世代です。この政治的状況と軌を一にして高度経済成長政策が実施に移された頃でもあります。化学工業に携わる”玄人”の論理で言えば、高度成長を支える基幹の一つとして、日本国土のあちこちで化学工業が花開いた時でもあります。そのことは、しばらくの間は日本に豊かさだけを招来しましたが、収支を合わせるように自然界に過重負担を背負わせることも招き、やがて、イヤでも化学技術の”素人”(単に専門以外の人と言う意味にとって下さい)に「化学」を認識させ、大衆の論理が作られるようになりました。つまり、次第に化学技術の”玄人”のよき時代の論理が世に通用しなくなった訳です。そして、化学技術の諸刃の剣的な顔がはっきりするにつれ、若年層の「化学」離れが世相の一つとして現れることにも繋がりました。
 こんな状況に陥りつつある1971年、三重大学に工業化学科が設立されました。くしくも、明治の幕開けとともに文明開化と富国強兵の大方針と歩調を合わせてスタートした日本化学会も100周年の区切りを迎えようとしていました。100年の計の行き着くところがこんな姿とは、前身である工業化学会の初代会長・榎本武揚氏(函館戦争の時、五稜郭の一室を化学実験装置で埋めていた)が想像できたかどうか? いずれにしろ、三重大学の工業化学科も日本化学会も、新しい化学技術の姿、つまりは”玄人”の論理と”素人”の論理の融合・調和したものを作らなければならない時期でした。一次産業立国の考えは、すでにほとんどなくなっていましたから、豊かさを支えるのは”物作り”であり、その基盤にあるのが「化学」であることを再確認するとともにその覚悟をし、自然と共生できる「化学」を大前提とし、三重大学では素材、エネルギー、資源、環境、資源のリサイクルの化学教育と研究がいち早く取り入れられたと思っています。その後、バイオテクノロジー分野を加えて、学科名称こそ分子素材工学科に変わりましたが、基本理念はそのまま受け継がれています。
 このような流れを作ると同時に、”素人”の論理の中には生理的嫌悪感が含まれていることも考えられますので、その対策として、高校生や市民に「化学」の姿をアピールしていくことが大切であるとの考えから、市民講座、高校生向けの講座が日本化学会の活動の一つとして20年以上も前から始まりました。幸いに日本化学会には高校教師もメンバーとして入っていますので、「化学」と「化学技術」に対する危機感を共有することができ、県の高校化学教師、県教育委員会の協力があって、三重大学でも、高校への出前授業、公開講座や公開実験講座、市民講座などを開催することができました。物珍しさも手伝ったこととは思いますが、当初は、定員の数倍もの高校生が大学での実験講座に参加してくれました。この行事は、今では、私たち化学の教官と高校生との出会いの場として、夏休みの行事の一つとして続いています。世相を反映して、出席する高校生が受験対策の一つにしていることを否定出来ない側面もありますが、この夏も県下の各高校から多数の生徒が集い、楽しい(アンケートより)一日を過ごしてくれました。この行事の評価は、次の50年の歴史が下してくれるとは思いますが、彼らが、”玄人”と”素人”の潤滑剤になってくれていることを期待しています。
 以上のことと関連することですが、今、大学は社会に開かれ、大衆化している又はしなければならないと言われています。つまり、大学の入り口も出口も多様化する時代に入っていることになります。このことは、進学率が上昇し、また、学生の年齢層の幅が広くなるという”数”に見られる現象だけではなく、上の私の経験を繰り返すまでもなく、長い閉鎖社会(象牙の塔)の中で培われてきた大学の論理だけで大学を運営する時代は過ぎ、社会の論理、社会の倫理で大学が動いていくということにもつながると思います。これは、歴史の流れの自然の帰結のように思います。60年代後半、団塊の世代(全共闘世代)が担った大学闘争(学生からみれば紛争ではない)が、大学大衆化の幕開けであり、その時すでに提起されていたことではあるが、古き大学の論理で捨て去るべきものは、ノスタルジーを排除して、捨て去るべきだと思います。しかし、大衆の論理に迎合して捨ててはいけないものに、何の規制をも受けない研究の自由及びそれを守るための論理があります。大衆の論理と研究の自由は時に二律背反するものとなりますが、取捨の選択を誤ると、次の50年の歴史の中で、大学は無用のものになりかねません。昨今、全国のあちこちで新聞紙上を賑わせている大学の事件も、元をたぐれば、社会の中で大学は既に大衆化されているのに、大学の方が、依然として大学の”玄人”の論理だけに浸り、それに甘えているためではないかと反省することしきりです。

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三重大学柔道部の50年

                生物資源学部教授  森田 脩

 昭和20年11月学校教育から戦時色を一掃するとの理由から柔道部の活動が禁止された。同11月に新発足した三重高農校友会から柔道部の名前が消え、伝統ある三重高農柔道部は活動を停止した。新制大学が発足し、昭和25年入学の学芸学部2期生で柔道への魅力、憧憬止みがたかった黒川、藤田、中村氏らは三重高農柔道部師範であった山中良一氏が津市内で師範を勤める山中道場に入門し、一般の柔道愛好家と練習に励んだ。一方、柔道本来の体育的価値を否定することはできず、昭和25年5月天野文部大臣は学校柔道実施についての請願書を連合軍総司令部に提出し、同年9月学校柔道の実施が認められた。10月に文部事務次官通達で柔道再開を宣言し、大学において柔道部の活動が可能となった。これをうけて昭和26年4月には学芸学部において最初の柔道部員募集が行われ、5名の新入部員を迎え入れた。しかし、学内には柔道場がなく、練習は依然山中道場で行われ、そこが部活動の場であった。昭和27年にはいると、東海地方学生柔道連盟選手権大会、東海地区大学体育大会(現東海地区国立大学体育大会)等が発足し、これら大会に三重大学柔道部として参加し、第1回東海地区大字体育大会には見事優勝を飾るほどの実力をつけていた。この年には滋賀大字との交流試合を初め対外練習試合も始まり、部活動は活発となった。しかし、三重大で試合を行う時は、学芸学部の食堂横の控え室に畳を借りてきて柔道場を急造して対応しなければならなかった。このような実状を解消すべく学芸学部内に柔道場設置を要望したが実現しなかった。ところか、東海地区体育大会の優勝を機に、三重高農時代の柔道部顧問である小柳弥先生のご尽力と岡出学長の英断により、高農時代に柔道部と剣道部が半分ずつ使用し、当時は物置状態になっていた農学部内の武道場に50畳の畳を敷き、待望の柔道場ができあがった。昭和28年4月から小柳弥部長、山中良一総師範、山本富男師範、猿丸勝晴コーチの体制で、字内で部員28名の練習が始まった。
 この柔道場は、110畳の畳敷きとその1/3程の広さの板間からできていた。畳部分は弾力性があり、床下には共鳴用の大きな瓶が敷設され、受け身をすると畳の音の響きが心地よかった。小生もこの柔道場には昭和35年からお世話になったが、当時は大部分がビニール製の畳に変わり、隅の方に従来の古い畳が敷いてあった。この柔道場は農学部の2号館新築に伴い、運動場に移設し、昭和42年まで使用された後取り壊された。昭和43年からは、教育学部が上浜キャンパスヘ移り、体育館内に新しい柔道場ができ、そこが部活動の場となった。ただ新柔道場はコンクリート床の上に畳を敷いたもので、床に弾力性がなく、入部間もない初心者が負傷しやすく、そのため畳の下にダンボールを敷いて衝撃をやわらげる措置をして使用した。しかも広さが80畳ほどで正規の試合場の大きさにはほど遠いのも難点であった。
 大学の発展に伴い、昭和44年には工学部設置により工学部の部員が、昭和47年には三重県立大学の国立移管に伴い水産学部の部員が、さらに昭和59年からは人文学部の部員が入部し、部員の学部も全学的になった。その一方で、昭和57年頃から部員減少のため医字部柔道部の応援を受けて試合に臨むようになり、両柔道部の交流が進んだ。そして、昭和62年には医学部柔道部と合併し、0Bの桜井実医学部教授を部長に、名実共に三重大学柔道部となった。平成元年には医療技術短大の学生が入部して女子部員第1号が誕生した。
 この間、昭和37年に0B会が組織され、会員数は300名を越え、毎年一回の総会と現役との交流試合を行い、お互いの親睦を深めている。また、昭和44年11月には野田稲吉学長をお迎えして三重大学柔道部20周年記念行事を盛大に行った。現在、柔道部は東海学生柔道連盟の一部リーグで活躍中である。

三重大学柔道部20周年記念行事の写真
三重大学柔道部20周年記念行事
前から2列目中央は故野田稲吉元学長、その左側小柳弥元農学部長、3列目右端筆者

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三翠農場の遺産「不渇の井戸」について

農学部 名誉教授 山家 光治

 1922(大正11)年4月、三重高等農林学校は第1回の入学生を迎えるのであるが、その時点で実験農場の整備は未だ完成していなかった。志登茂川左岸のこの地帯は、低湿地で排水の設備も全くなく、加えて塩害が甚しくて、実験実習農場としての実質も形態も全然備えていなかった。このような現状を見兼ねて一部には、この際むしろ他の適地を探して移転した方が良いとの声も出たが、上原校長は断乎反対して、如何に土地が劣悪であろうとも、農業工学の全能を傾けてこれを改良すべきであるとして、移転論を一蹴し、敢然これが改良の方策を講ずることを決意表明された。同年5月に行われた初耕式に於いて、校長は「農場の土地改良は本校にとって緊急の最大重要事項である。教官、学生相互に協力して、この難事業を成し遂げるべきである」と訓辞を述べられている。  土地改良事業を推進するため、校長自ら陣頭指揮をとって調査、設計委員会を設けて衆知を集めることにし、農業土木科の全教官に、農場長および作物学、林学より各1名を加えて委員に任命し、連日にわたり検討を重ね、ついに半年後に土地改良計画について意見の一致を得た。
 それによると灌漑用と、さらに塩分を除くためには相当量の淡水を継続的に必要とすることが必須の条件となった。用水取得の方法について種々検討したが、地表水では適当なものが無く、地下水によらざるを得ないという結論に達した。そこで校内、農場内の各所を探したところ、農場内中央北寄りの地点で、地下約75mの深層で、条件に合う理想的な水脈を発見し得たので、ここに待望の水源井戸を掘ることに決定した。ときに1923年、これが現存する通称「不渇の井戸」の始まりとなる。
 そのときから10年後、私は農業土木科の学生であったが、農場の土地改良に直接関係された5名の先生方から、工事完了に至るまでの詳細な説明や苦心談をそれぞれ聞いて、農場内に掘った水源の深井戸が、三重高農の前途に大きい影響を及ぼすほどの重要な施設であることを知るようになった。また2年次の1ケ年間に必修の農場実習を通じて、工事完了後の圃場の諸施設と、その機能を詳細に実地に体験して知り、水源の大井戸が、実験農場の生命を日々維持する心臓に相当するほど重要な器官であって、地下で循環する水脈を発見できたことは、本校にとって誠にこの上もない幸運であって、それは正に天佑であると教え込まれるのであった。
 大井戸の外観は直径9mの円形池のようであるが、実は地下75mの水脈と3本の管で連結されている。井戸側のコンクリート壁は、75年の風雪に耐えて、いまも健在であるが、コンクリートは総て材料を鉄板の上にのせて、人力で練ったもので、その作業の激しさは、体験した者こそ知る誠に重労働であった。
 井戸は初耕記念樹の西に隣接しているのでその高架水槽はよく目立っている。井戸の湧水量は72/時、すなわち24時間あたり1,728の真水を供給して必要量を十分に充足して余りあったという。また暗渠排水によって地下水位を低下させ、有害な塩分を取り除き、地表に灌漑し、暗渠排水の繰り返しで、水田5ヘクタールと畑10ヘクタールは、その失われていた生産機能を回復したのであった。また用排水設備とも、電動ポンプは適時自動的に作動する方式を採用した。水田の区画、農道も整備され、一部運搬用の軌道も敷かれた。畑では給水栓が適所に設けられ、大形スプリンクラーによる撒水を可能にし、また2ヘクタールの大農機械実習畑も設けられた。今にして思えば、これは日本農業の近代化を50年先取りした観があった。
 上原種美校長は、農場の土地改良が成功したのは、最悪の条件下で最善を期するため、教官、学生が一致協力して最大の努力をした結果であるとして、それは本校の校史に残る無形の精神的成果であったと評価している。
 また設計から施工まで直接担当した教官等は、工事を通じて絶好の研究材料を見つけて、実地に調査して、その得るところ極めて大きかったと評している。
 三重高農が開校して本年は75年目に相当するが、上浜地区に学部を統合して現在本学の敷地は52ヘクタール余りを有し、その発展は目ざましいものがある。農場の土地改良が成功したために、農場は以来安定して定着し、その占有空間を核にして学部用地を拡大することが可能になったのである。農場は昭和45年に現在地(高野尾)に移転したが、大いなる水資源としての「不渇の井戸」は残った。21世紀に向けて、この誠に有用なる遺産を三翠学園が受け継いで、「不渇の井戸」を大切に守り、また最大限にこれを活用することが、開拓時代の三翠の先人達に対する報恩となるであろう。

大井戸の写真
現在は実験圃場の南側に位置する大井戸

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36年前の三重大学学生便覧

生物資源学部教授   山崎 忠久

 自宅の書棚整理中、昭和36年版の三重大学学生便覧が残っているのに気がついた。36年前の入学時に配布された資料のうちの一部である。現在のものより版が小さく、学芸学部と農学部の2学部当時のものなのでページ数も少ないが、内容的には現在のものと変わらない。異なる点は教官の氏名、担当科目、現住所が印刷されていることである。
 表紙中央下部に学則第30条(当時29条)による標章が印刷されており、表紙の裏には標章の説明のほかに「なお、学生えり章は学芸学部はLiteratureのLを、農学部はAgricultureのAを着けることに定められている。」の記載がある。当時、大多数の学生が標章とえり章を付けていた。卒業時のアルバムの写真はえり章がAではなくFとなっている。これは、上級生になると林学科の学生はForestryのFを用いたためである。最近の学内では標章を着用している学生は滅多に見られない。研究室の学生に問うと、現在は学則に定められている標章は生協の売店でも販売されていないという。
 学生便覧のスタイルはその後B5版となったが昭和36年版と同様に昭和のほとんどの年度のものは標章が表紙に印刷されていた。時が移り、学生便覧の版もA4版とさらに大きくなったが、同時に表紙を飾っていた標章が裏表紙に回され、平成6年度版では、平成4年1月以降使用されることになったシンボルマークが表紙を飾っている。これでは、学則違反?の学生ばかりであっても無理からぬこと、昭和25年に制定された林科の大先輩前川素規氏の作品で50年近い歴史をもつ学則第30条の標章の今後が気にかかる。
 当時、農学部には5学科28講座が存在したが、学生便覧の学習要項には講座名はすべて数字で表記され、講座科目が記載されている。林学科には第1講座から第5講座の5講座が設けられており、講座外として、実地見学(2単位)と森林演習(6単位)の科目名の記載がある。
 当時の森林演習は、現在のようにスクールバスを利用した2〜3泊の森林演習とは異なり、1回7〜10日の日程で一部の学生(食料担当)をのぞいて大多数の学生が重いリユックサックを背負い、名松線を利用し、奥津駅〜演習林間を徒歩で往復したものである。演習林実習でいつも思い出されるのは、名古屋から通学していたクラスメートの1人が第1回目の森林演習の際にどこか都会に出張するのではないかという出で立ち(ボストンバッグと革靴)で名松線に乗り込んできた姿に驚かされたことであるが、学生便覧の演習林の説明として「…、林道も完成し、大型トラックも自由に出入りすることができ、学生の森林演習に至便の状況にある。」と記載されているのを読んでなるほど無理もないことだったと納得した。当時の林道は演習林入口から少し入ったところまでで、現在のように宿舎まで開通したのは昭和43年、スク一ルバスが入るようになったのはもう少し後年になってからである。
 また、当時はタタミ1枚分の大きさの手すりの無い木製ベッドであったので、実習疲れでベッドからよく転落したものであったが、その後手すり付きの2段ベッドに改修され、転落する者は無くなった。
 昭和36年版の学生便覧の機構図には演習林は農場とともに研究施設として位置付けされているが、学生の実験実習並びに教官の試験研究以外に収入実績により配布予算額が減額されるために、近年は営林事業も重視せざるを得ない状況にあった。学部附属の演習林として林学の教官及び学生の実習に使用されてきたが、最近の演習林は森林資源学コースの教官・学生に限らず、他学部、学外者の利用者も多い。
 このような状況の中、演習林技官の高齢化と定員削減による数の減少により、従来のような事業実行が不可能となってきたので演習林会議において今までの施業計画を、第11期(1998〜2002年)の計画では教育研究計画と名称変更することが決定され、演習林を研究施設として再び位置付けようということとなった。いずれにしても、時の流れの速さを痛感する今日この頃である。

昭和36年度の学生便覧の写真
昭和36年度 三重大学学生便覧

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座談会

 8月20日午後、附属図書館館長室において名誉教授の先生方をお迎えして座談会が催されました。荒井瑞雄先生(元教育学部長)、井澤 道先生(元学長)、菊岡武男先生(元農学部長)、武村泰男学長、中村厚生事務局長、酒井 一編纂室特別委員にお集まりいただき、上野達彦刊行専門委員会委員長の司会で、三重大学開学50周年を語っていただきました。

座談会の写真
座談会の模様

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編纂室だより

編纂室日誌

平成9年7月14日(月) 第19回編纂室委員会
      16日(水) 第20回刊行専門委員会
      30日(水) 静岡大学記念誌編纂室視察
    8月20日(水) 第20回編纂室委員会
             三重大学開学50周年記念誌座談会
    9月 8日(月) 第21回編纂室委員会
             聞き取り会(松田延一名誉教授)
    9月17日(水) 第21回刊行専門委員会
    9月29日(月) 京都大学百年史編纂室視察
    9月30日(火) 部局史原稿締切
   10月 1日(水) 杉村さん着任
   10月27日(月) 第22回編纂室委員会

今後のスケジュール

平成9年10月   部局史原稿査読開始
          資料編データ整理開始
    12月8日 第23回編纂室委員会
  12月   刊行専門委員会(日程未定)

平成10年1月末日 通史第1次原稿入稿
     3月末日 通史編完成
          部局史編完成
          資料編完成
4月・5月・6月  締め切り日以後の出来事の追加
          最終査読・調整

平成11年5月三重大学開学50周年記念誌刊行

編纂室近況

編纂室の写真
編纂室前にて
向かって左から上野達彦刊行専門委員会委員長と酒井一特別委員

編纂室の写真2

顔写真  10月1日から、50年史編纂のお手伝いをさせていただくことになりました。
私が教育学部に在学しているときに、校舎が丸の内から上浜町に移転しました。当時上浜町では体育館から先は高い建物がなく、草の茂るずっと向こうに海岸堤防が一直線に見えていました。その後大学院人文社会科学研究科に入学したときには、あの草原に人文学部・工学部・医学部・医療技術短期大学部等の建物が林立し、その変貌ぶりに驚かされました。卒業生として今回開学50年記念事業に参加できることをうれしく思っております。どうぞよろしくお願いいたします。杉村 和代

50年史編纂室からのお願い

50周年記念誌編纂室では、三重大学の半世紀の記録を収集するために、資料の発掘作業を行っています。特に現在は三重大学の建物や記念行事、大学生活(クラブ活動等)の写真、教職員や在学生の方の日記・記録を探しています。上記のような資料をお持ちか、また所在をご存じの方は、下記にご一報いただければと存じます。

三重大学附属図書館内  50周年記念誌編纂室 TEL059-231-9660 内線2213

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<No.8 1997年11月14日>
三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会・同編纂室委員会発行
津市上浜町1515 TEL 059-231-9660
第8号担当委員 社河内敏彦(工学部) 市川眞祐(生物資源学部)