三重大学50年史「ニュースレター」

 No. 9(1998. 3. 27 発行)

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ニュースレターの目次


本号の内容


在職中の諸体験

                   元医学部事務長  伊藤 嘉彦

 医学部の臨床講座がl8講座になって半年後の昭和55年4月から3年間の在職期間中、特に苦労したことや、記憶に残っていることなどについて記すことにする。
(1)医学部守衛の終末
 医学部は他学部と異なり、大学院生及び病院所属の研修医・医員・教官の研究活動が活発で深夜に及ぶことが多い。この研究の一部は基礎医学研究施設でも行われ、55年度まで守衛が夜間の研究施設の鍵の授受を担当していた。(県立大学から国立移管に際し守衛の所属は事務局に変わるが、勤務は当分の間医学部となった)しかし、56年度から“守衛の配置は2名に減員する”と事務局から通告を受け、週2日守衛が不在となることになったため、その日の夜間の鍵の授受業務等を宿直1名増員で対処することにし、まず実態把握体験の必要から自分も宿直をした。結果は外線電話の接続に始まり、深夜に鍵の授受1件、早朝には火災報知器の誤作動まであり、大変なことと実感した。
 ここで、何故深夜に鍵の授受にこだわったのか?当時の事情を列記すると次のとおりである。医学部の守衛は夜間、研究者に対し目立たない協力関係にあり、これが“守衛は当分の間、医学部勤務とする”との申し合わせとなっていたこと。RI実験施設は狭くて昼間は基礎講座の利用で余力がない状況に対して、当時のRIセンター長は夜間利用に理解があり協力的意向が強かったこと。また、RIセンターには取扱ライセンスを持った技官が、夜間利用について実情説明に来たこと。以上がこだわる要因となった。
 57年度に入り医学部への守衛派遣は廃止となったが、RIセンターの増築工事が始まり、既設部分の使用は増築工事完了まで制限され、夜間利用は停止された。増築完了で広くなってからは利用管理が改善され、宿直の負担も解消し、守衛不在にも支障を感じなくなった。
 RIセンターと並行して着工した附属動物実験施設の新築工事も57年度末に完了して、医学部裏門の風景は様変わりした。
(2)9階建の臨床研究棟で汚水噴出
 57年11月20日、臨床研究棟麻酔科教授研究室から水の流れる異常な音がする、との通報を受けるが、教授は出張中であり、助教授は仕事中なのでドアロックを解き調べると、室内一面生活排水が吹き出しているのを発見、急ぎ水道の元栓を止め、関係者へ連絡し、修理業者に点検を依頼、早速業者が排水管を切断すると未調理の大きな生野菜ほか雑物が吹き出し、詰まった原因が判明した。応急処置と学部長に報告の結果、排水管にウィルス等を含んだ実験廃液を流している心配もある、ということで、学部長自ら、研究室のある教授を尋ね回るので私にもついて来るように、と指示を受け随行、その結果はどこも流していないことを確認、被害の拡大もなく消毒と清掃を済ませ、この事故は修復解決した。
(3)全国事務長会議の当番校を担当
 一般学部と同一キャンパス内に学部と附属病院のある三重大学の現状を見たいとの会員校の要望により、57年8月27日に第29回国立大学全国医学部事務長会議の当番校を担当し順調に会議を済ませることが出来た。私にとって、この会議は公務員生活33年の最後を締め括る記憶に残る行事となった。

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医学部の思い出

                   元医学部事務長  杉谷 家一

 私は昭和36年から51年3月までl5年間事務局で司計係長や主計課課長補佐として文部省に予算要求や概算要求書を作成する事務を担当してきた。5l年度附属図書館事務長に配置換になり新図書館の新築にかかわり、54年農学部事務長に変わり、58年4月から61年3月まで医学部事務長を務めたので、その間の思い出を綴ってみることにした。
 三重大学は当初教育学部(現在、津市役所の場所)と農学部(上浜町所在)の2学部で発足し事務局は農学部の木造の本館にあった。教育学部も敷地が狭隘で大学の総合運動場もなかったので、農学部の敷地に隣接して39・40年度に15l,000屬療效呂鮃愼し農学部校舎の建て替えと教育学部の移転統合が始まった。
 42年7月三重大学は工学部創設の概算要求書を文部省へ提出した。三重県は工学部の次に県立大学の国立移管があるので工学部設置期成同盟会をつくり県の重要課題として工学部創設を強力に陳情し、44年度工学部創設が決定すると念願の県立大学の国立移管の運動を直ちに始めた。
 県立大学の医学部(津市栄町所在)と水産学部(津市大谷町所在)の校舎は老朽化が著しく、昭和43年度三重県は水産学部校舎を江戸橋2丁目に上地を購入し新築した。
 続いて、三重県は医学部及び附属病院の建物を農学部附属農場敷地(江戸橋2丁目)に建築することになり、三重県は43年度附属農場の代替農場を安芸郡豊里村高野尾に造成し44年度その上地と江戸橋2丁目の附属農場の±地と交換し、附属農場跡地に県立大学医学部校舎及び附属病院を計画した。
 昭和44〜48年頃は三重大学は学園紛争の最中で一般教養校舎の4階からヘルメットに手拭いで顔をかくした学生達が火炎瓶を投げたり、学長、学部長、学生部長等責任者を取り囲み団交した。時には評議会も学内で開催出来ず、学外で開催しなければならないような異常な時期であったが、大多数の学生は真面目に勉強をしていたので、多少の障害はあったが農場の移転や一般教育校舎の新営等は計画どおり進められた。
 昭和44年7月三重大学は医学部・水産学部の創設(県立大学の国立移管)の概算要求書を文部省へ提出した。45年度調査費がつき、地財法に基づき文部大臣と三重大学長と三重県知事の三者による「三重県立大学の国立移管に係る覚書」を作成し自治大臣の承認を受けた。46年度設置準備費が計上され、47年度から4ケ年の学年進行で移管が決定した。三重県で附属病院を新築し、国で基礎校舎の増築、臨床研究棟、看護学校、同寄宿舎等を新築することとなり次々と医学部の建物が整備された。
 58年4月医学部事務長に配置換になったときは国立移管後7〜8年経過し、事務職員は毎年学内異動をしていたので国や県の隔たりは感じなかった。しかし、教官の中には他の国立大学なみに早く施設・設備を充実してもらいたいと意気込んで色々と難問題を持ち込まれる教官もおられた。
 三重県から移管した基礎校舎の玄関等は見たところ立派であったが、部分的に不備な箇所もあり、職員は見えない所で大変苦労した。
 医学部へ配置換になって間もない58年5月中旬に解剖体の慰霊式が臨床講義棟で行われた。式典次第は先輩の林事務長に上手に作ってもらってあったのでその次第によって事務長が司会をすればよいことになっていた。ところが式典の始まる直前になって、ある男の方から抗議を受けた。式典の開始時間でもあるので講義棟の入口の椅子に待っていただき武田学部長のところに相談に走った。時間的なこともあってその方との話し合いを病理学の矢谷講師(現学長)に依頼し無事に慰霊式を終了することが出来た。その方は県立大学時代に親族を献体したが事情があり遺骨を受け取っていなかった。58年になり急に遺骨の引き渡しと県立大学時代のとおり高田本山で慰霊法要を行うことを要望していることが分かったのでその方の希望どおり法要を行って円満に解決した。
 58年7月武田学部長が軟式テニス部の学生が専用のコートを要求しているので精神科病棟の東の場所に一面作ってやってくれ、学生には自分達で計画して作れ、出来ないところは事務長に頼めと言ってあるといわれた。軟式テニス部の学生を呼んで聞くと硬式テニス部は専用コートがあるが、軟式テニス部は精神科患者用コート2面を借用している。学生が練習を始めると患者が練習に来て、学生だけの練習がなかなか出来ないので学生専用のコートが欲しいということで、テニスコート設計図を持ってきた。学生は土等の材料を買ってもらったら自分達で全部するという意気込みであったが、君達の言うように簡単に出来ると思わないが作ることにしようと言った。早速学生達はスコップやツルハシや運搬車の手配を頼んできたので用度係で用意した。いよいよ学生が掘方を始めるというので一寸見に行ったところスコップで土を一度も掘ったことのない学生がいた。出身地を尋ねたところ大阪市でスコップを持つのは初めてということであった。これでは危険を伴うと思い業者に依頼することにしたが、業者が来るまでの間、学生達は喜んで一生懸命上木作業をした。その時、ある職員が学生自治会の掲示板に「学生を土方に使う事務長」と掲示してあると言ってきた。テニス部学生を呼んで掲示の件を聞いたところテニス部は学生自治会執行部にこのことを話したこともない、自治会執行部に記事の取り消しを申し入れると言って帰った。その後掲示板に自治会執行部の取消文が掲示された。今迄医学部以外の学部の職員組合や学生自治会から苦情を受けたことがあったが、医学部学生自治会執行部の紳士的な態度に感心した。
 ある時、数人の柔道部学生が事務長室へやって来た。医学部柔道部は第2体育館(県立大学から移管した建物)で練習をしているが畳が破れて危険である。東海地区医学部体育大会に出場するため毎日練習しているので畳を修理して欲しいと言ってきた。早速体育館へ行って見たが破損が甚だしく取り敢えず2枚重ねの上の畳だけは新調しなければならない状態であった。学生部に話をして畳を新調した。東海地区体育大会が終了後柔道部学生が事務長室へ来て優勝することが出来たと喜びの報告があった。
 58年3月動物実験施設が竣工したが空調設備が順調に運転しないので施設主任の志村助教授から何回も連絡を受け施設部へ連絡した。また、立派な施設が出来ても人員が伴わないので初代施設長の塩見教授、二代目坂本教授、志村助教授は大変苦労されたのも記憶に残っている。
 また、思い出の一つに58年7月武田学部長から中国白求恩医科大学の学長から招請が来たが学部長は行けないので、2〜3人の教官と事務長と谷学務係長で行きなさいと云われ、鈴木宏志教授を団長として桜井教授、小坂教授、鈴木教授夫人、谷学務係長と私の6人で8月31日から8日間長春市の白求恩医科大学、藩陽市の中国医科大学の2大学を訪問し中国の大学の施設等を案内してもらった。特に記憶に残っているのは鍼灸療法等漢方医学の実際を見学したことであった。また、中国の大学の学長は日本のように教官でなく中央から派遣された行政官や党の幹部で両大学の学長とも人格者で気持ちよく話の出来る方であり、熱烈な歓迎を受けた。
 私の医学部在職時は国立移管後7〜8年経過した時で未だ教育研究施設や設備が十分でなかった。60年度に大学共同設備の電子顕微鏡が基礎校舎に導入された時期であった。

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聞き取り会

農水合併

 昨年12月16日、熊澤善三郎元農学部長、野田宏行元生物資源学部長、林孝市郎元水産学部長にお集まりいただき、農水(農学部、水産学部の意)合併についてお話を伺いました。

聞き取り会の写真

一部抜粋
酒井 生物資源という言葉はどこからきたんですか。
野田 委員会の中で。
熊澤 それは結局、魚も米も生物じゃないかと。そういう単純な発想です。結局農と水で共通なものは何だというと、生物だと。しかし、生物学部だったら理学部的だ、やはりApplied Field(応用分野)というので資源だと。
・・・中略・・・
酒井 当時、ほかにも生物資源学部という言葉は、学部とか学科とか、あったんですか。
野田 いや、ありません。我々のところが初めてです。

構内の樹木

 昨年、11月17日、山家光治名誉教授にお越し頂き、高等農林の頃のことや、今も残る構内の樹木についてお話を伺いました。
 写真は旧農学部(現在は生物資源学部)のシンボルツリーの楠です。

生物資源の楠の写真

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医学部と同附属病院の事務機構一元化への歩み

                   元医学部事務部次長 別所 昭生

 在職当時を振り返って見ると、記憶も大分薄らいでいるが、特に印象に残っている事柄のうち、標記のことについて思い出してみたい。
 三重大学医学部及び三重大学医学部附属病院は、それぞれ三重県立大学医学部及び同附属病院を国立移管し設置されたのである。事務組織は、他の国立大学と同様に両部局に事務部を置き運営が行われて来たのである。文部省は、昭和50年5月に各国立大学の事務機構を強化するため、医学部と同附属病院の事務機構の一元化を図るように要請されて来たのである。さらに政府は、昭和56年3月には、臨時行政調査会(臨調)を発足させ、行政の実態に全般的な検討を加え、行政制度及び行政運営の改善に関する基本的事項を審議することとしたのである。この臨調の答申の趣旨に沿って、国立大学においても整理合理化の推進が行われ、具体的措置の一つとして、医学部、同附属病院の事務機構の一元化が一層推進されることになった。昭和57年4月には、岐阜大学、続いて同58年4月には山口大学、同59年4月には琉球大学と以来毎年医学部、同附属病院の事務一元化が相次いで実施された。このような状況下にあっては、三重大学も遠からず事務機構の一元化を図るよう要請があるやも知れず、そこで昭和60年に医学部、同附属病院の事務一元化について、事務部門での具体的検討に入ったのである。三重大学においても事務組織等見直し検討委員会が発足しており、昭和61年4月1日には、同委員会に検討小委員会が設置された。私は、このような時期に医学部事務長に着任し、事務一元化の具体的検討に参加することになった。事務一元化の実施時期については、事務局、両部局での検討状況からみて、昭和63年度以降と予想されていた。ところが文部省から、昭和61年5月16日に開催される臨時国立大学医学部長会議の前後に、医学部長に同行して文部省に来るように要請があった。予想される話の内容は、事務一元化についての意向の打診である。早速事務局において打ち合わせを行った。三重大学の意向としては、昭和62年度概算要求事項も提出後であり、また、学内の検討状況等を考えると、早くても昭和63年度の概算要求事項にすることで意見の一致を見たのである。そこで前記会議の前日に医学部長と文部省に出頭したところ、同省は、医学部、同附属病院の事務一元化を昭和62年度に実施することについて、意向を打診してきた。あまりにも急な話であるので驚きながら、打ち合わせに基づき医学部等の意向を説明したのであるが、文部省の方針等の説明があり、重ねて事務一元化を推進するよう要請があった。帰学後早速事務局において文部省の方針等を報告するとともに、今後の進め方について協議を行った結果、取り敢えず昭和62年度実施に向けて具体的検討を急ぐこととし、5月下旬に事務局長が会議で上京する際に、文部省において最終的な意向の確認を得て、三重大学へ電話を入れることになった。そこで急速医学部教授会及び同附属病院運宮委員会で、事務一元化の審議が行われることになった。事務一元化に当たっては、教育、研究、診療の円滑化に支障が無いように特段の配慮が行われなければならない。従って、医学部、同附属病院においては、教職員にも理解と協力を得ることも重要な課題の一つであった。待っていた事務局長からの電話は、文部省からは、医学部、同附属病院の事務機構の一元化を昭和62年度は、東北大学及び三重大学の二大学を予定しているので、同年度の概算要求事項に追加することについて強い要望があった旨の内容であった。私は、事態が急を要することなので、出来る限り機会を得ては、教職員に理解と協力を得られるよう現状等の説明を行ったのである。医学部においては、5月28日に開催の教授会において、各大学においても避けられない状況を考慮し、また、医療技術短期大学部創設要求との関連もあり、昭和62年度予算での概算要求の追加事項として、事務機構の一元化を要求することになった。5月29日には、事務一元化ワーキンググループ会議が行われ、6月2日には、医学部、同附属病院事務一元化検討専門委員会及び事務組織等見直し検討委員会が開催された。以後事務局を交えて関係者が相寄り、概算要求事項の内容について検討を行った。事務一元化ワーキンググループ会議も各分野に分かれ活発に具体的事項の検討を進めた。そして6月25日開催の評議会において、昭和62年度概算要求の追加事項として、医学部、同附属病院の事務機構の一元化を要求することが承認された。以後医学部と同附属病院との間で度々検討を重ね、また、前述の各種委員会との協議が行われた結果、事務組織は、医学部5係、同附属病院3課14係を統合して、事務部に部長及び次長を置き、4課22係とする内容となった。続いて、学内の諸規程等の一部改正の検討を行うとともに、建物の整備等についても他大学の現状を見聞し、医学部、同附属病院の運営に支障の生じないように計画を進めた。文部省は、昭和62年5月21日昭和62年度の国の予算成立に伴い、東北大学歯学部とともに、三重大学医学部も医学部事務部と同附属病院事務部を統合して、医学部事務部に部長及び次長を置き、総務課、管理課、学務課及び医事課の4課22係に改組したのである。また、関連人事が発令になり、初代の事務部長に中安龍、事務部次長に別所昭生が就任した。後で分かったことであるが、昭和62年度事務一元化実施予定の鹿児島大学が都合により一年延期されたことに伴い、三重大学が急速浮上したようであり、我々の苦労が倍加されたのではないかと思うのである。
 さて統合後の事務部に残された課題の一つは、事務室である。建物は、当面現状のままで有効活用することになったので、暫くの間旧医学部と附属病院の事務室に部長、次長を始め各課各係等が分散して勤務し運営をすることになったのである。従って建物の早急な増改築が望まれたのである。また、予算管理においても、事務部の職員は、国立学校予算項と、附属病院予算項に分かれているので複雑になった感がある。その後は、教職員の御理解と御協力により、今日に至っている。

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編纂室だより

今後のスケジュール

平成10年2月〜5月     部局史編査読・調整・編集
     3月16日〜5月  通史編編集
     3月〜5月     資料編編集
     5月〜6月     印刷発注準備
     7月初め      第1次印刷発注
     6月〜7月     追加原稿(原稿締切日以後、5月末日までの事項)依頼・編集
     8月初め      第2次印刷発注(追加分)
平成11年5月        三重大学50年史刊行

日誌

平成9年10月27日(月)    第22回編纂室委員会
    11月17日(月)    聞き取り調査(山家光治名誉教授)
    12月 8日(月)    第23回編纂室委員会
    12月16日(火)    聞き取り会「農水合併について」
                 部局史原稿再点検依頼(部局編集委員へ)
平成10年1月12日(月)    通史編分担執筆依頼
     1月26日(月)    第24回編纂室委員会
     2月 2日(月)    写真収集(文書広報係にて)
     2月 9日(月)    写真収集協力依頼(施設部にて)
     2月18日(水)    第25回編纂室委員会
     3月18日(水)    第26回編纂室委員会

近況

編纂室委員会の写真
編纂室委員会の模様

事務室の声

 編纂室の鉢植えの"ハマボウ"にも芽が出てだんだんと葉が大きくなってきました。50年史もそろそろ枝や葉を繁らせ、花を咲かせたいものです。 ♪ 杉 村 和 代
 春が来るのは嬉しいのですが、印刷発注予定日まで、あと3ヶ月。これから忙しくなるんだろうな、と恐怖している今日この頃です。 ♪♪♪ 坂 口 典 世 ♪♪♪

50年史編纂室からのお願い

 50周年記念誌編纂室では、三重大学の半世紀の記録を収集するために、資料の発掘作業を行っています。特に現在は三重大学の建物や記念行事、大学生活(クラブ活動等)の写真、教職員や在学生の方の日記・記録を探しています。上記のような資料をお持ちか、また所在をご存じの方は、下記にご一報いただければと存じます。

三重大学附属図書館内  50周年記念誌編纂室 TEL059-231-9660 内線2213

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<No.9 1998年3月27日>
三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会・同編纂室委員会発行
津市上浜町1515 TEL 059-231-9660
第9号担当委員 坂倉照よ(医学部) 宇治幸隆(附属病院)