三重大学50年史「ニュースレター」

 

 No. 11(終刊、1999. 9. 29発行)

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ニュースレターの目次

本号の内容


記念誌が完成!!

     三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会委員長 上野達彦

 ほぼ6年にもおよぶ歳月を費やした開学50周年記念誌「三重大学五十年史」が完成した(配付は11月予定)。当初からこの事業に関わった者の一人として安堵の思いである。開学50周年記念誌編纂室の各委員からのそれぞれの思いは、記念誌の編集後記のなかで語られている。この度、このニュースレターを閉じるにあたって、これらを再録させていただいた。
 なお、この事業を裏方として支えていただいた附属図書館の吉田部長、隅田・望月両課長、そして荻野専門員からの言葉もあわせて収録させていただいた。

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「三重大学50年史」の編集を終えて

 (同書「編集後記」より)

     三重大学開学50周年記念誌編纂室委員会

 1949(昭和24)年5月31日に新制国立大学が一斉に設置され、三重大学もこの日に誕生した。その後、半世紀の歳月を重ね、当初の農学部・学芸学部の2学部から歴史を刻みながら、今日の5学部へと発展してきた。めざましい成長とよんでいいだろう。ここにその歳月を振り返って記念事業の一環として50年史を刊行することになった。50年史は通史編、資料編、部局史編の3編からなり2分冊にまとめられた。たまたま50周年記念誌刊行専門委員会委員長の上野達彦教授の要請をうけて、退職後の私が特別委員として参画し通史編を通覧することになった。
 通史編集の基調を、大学の歴史を時代と地域の中から描くことに置いた。国立大学の個性はその学風とともに地域性を反映した学部構成にうかがえるが、その上でできる限り学部そのものの特色を浮彫りにするようにした。まず時代区分をし、新制大学発足以前の母体校を前史として取り上げた。高等農林学校と師範学校の歩みがそれを物語り、一昔前の専門学校の姿を蘇らせた。つぎに1949年以後、戦後の荒廃の中から教育・文化の育成、平和と民主主義を担って全国に大学が誕生したが、そのときの生々しい雰囲気が語られる。教員の資格審査、文部省からの暗号電報、開校式への占領軍の招待など。学生も多様な姿で登場する。
 その創成期についで、日本経済の発展とともに本学も拡張の道をたどる。三重県立大学(医学部・水産学部)の国立移管、上浜キャンパスヘの統合、工学部の新設、そして大学を揺るがせた学園紛争。この1960年代から70年代の大学を取りまく情勢の中で、その歴史が段階を追って説明されている。
 さらに念願の人文学部の新設とこれにつづく農・水合併による生物資源学部の設置。苦労を重ねつつ新しく道を切り開く動きであり、その上に今日みるように3研究科における博士課程、2研究科の修士課程の設置をみ、大学として充実を示した。
 この間、大学史の画期には、時代とこれを超えて学園を発展させた人物とが交錯している。いろいろな思い出を重ねながら、さきにみた成長をみせたことになる。
 通史編の編集の哲学として、丸山真男の「後衛の位置」に引用されたアリストテレスの言葉を置いている。「家が住みいいかどうかを判断するのは、建築技師ではなくて、その家に住む人間である」。この家を大学に読みかえることによって、制度や規則の行間に、ここに働き学ぶ者の姿をできるだけ描くようにした。写真一つをとっても、かつての記念誌がかぎられた人物と建物を中心にしたのに対し、学生にも焦点をあてた。学長も学生とともにいる場面を掲げるように努めた。この精神を、回想を中心にした様々なコラムを適宜配置して生かすとともに、読みやすさと親しみを示すようにした。
 あわせて、ニュースレターを発刊してエッセー風の記事を載せ、別に大学の節目を語る座談会や回想を聞き取りして記録にとどめた。
 執筆者が多くなったため、通史それ自体や部局史編との重複が散見するが、大きな流れを理解するためにご容赦願いたい。歴史が過去と現在の対話であり、ここから未来を見通しうるとすれば、いま設置以後半世紀を経て転換をせまられている大学にとって、50年史が何らかの示唆を準備できれば幸いである。

  

 

−附属図書館3階の編纂室にて (特別委員・名誉教授 酒井 一

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 三重大学開学50周年記念事業の一つとして1993(平成5)年の暮れから始まった、「三重大学五十年史」が完成した。当初に計画したスケジュールに4か月の遅れであった。また頁数も1400頁を超え、相当な大部となったために、通史編・資料編と部局史編に分冊しての刊行となった。内容については、この年史編纂に携わった者の一人として、これをコメントする立場にないが、実に多くの人々の協力を得てこれが完成したことを思う時、感慨深いものがある。
 いま改めてこの年史編纂の事業を振り返って見ると、人間の歴史のなかで、やはり50年という年月は巨大である。とりわけいままでに部局史はそれぞれの節目に記念誌が刊行されているものの、三重大学全体史への取り組みはなかった。このため膨大な資料の掘り起こしや人の記憶をたどっての事実の確認にいたるまで、やはり苦労の連続であった。しかし、過去と現在の教職員、卒業生や現役生たちがこの事業の完成のために協力を惜しまず、さらなる絆を結ぶことができたことは、この年史編纂の最大の成果であったと自負している。この事業の一端を担うことができた一人として、事業委員会や刊行専門委員会はもとより、編纂室、各部局の編纂委員会の真摯なご協力の賜物であることに感謝の念を禁じえない。
 こうして三重大学は、「三重大学五十年史」のなかで、大学にとっての50年が総括された。そしてその結果として、いま5学部をもった総合大学に発展した。これは、大学全体の財産である。この半世紀の歴史の上にたって、三重大学がさらに新たな時代に向けて飛躍するために、どのようなビジョン(理念)が必要となるか、いわば「21世紀における三重大学の建学の精神」の構築が課題となる。
 最後に、矢谷学長はじめ、刊行専門委員会の委員諸兄姉や三重大学教職員OBの先輩諸兄姉、卒業生など、「三重大学五十年史」刊行事業に関わられたすべての方に深謝し、編集の後記にかえさせていただきたい。

委員長・人文学部 上野達彦

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 1993年に五十年史の刊行専門委員会と編纂室委員会が発足してから6年経ちました。長いようで、今振り返るともうそんなに経ったのかと思います。9月の発刊までには多くの方々の貢献に負ってきました。思い付くままですが、いくつか挙げさせていただきお礼申しあげたく存じます。
 6年間にわたってコンスタントに委員会を開催し、編集作業を進められたことはまことに驚くべきことであります。委員会を主催されました委員長の貢献をまず挙げたいと思います。次に、同窓会発行の「三重大学教育学部五十年史」は随分参考にさせていただきました。とりわけ、師範学校時代については同史がなければできなかったかもしれません。さらに、教育学部では、多くの方々に執筆をお願いすることになりました。そして、できるだけ統一的に記述するため、酒井一名誉教授には労をとっていただきました。
 歴史から、先人はそれぞれの状況において最善の努力をされてきたことがうかがえます。教育学部は今激変の時期にあります。歴史を参考にできればと思う次第です。

教育学部 宮崎清

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 部局史関係(医学部および附属病院)の編集後記を書くことになったが、私は最初から三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会として関係してきたものの、記念誌編纂室委員は本年からである。野坂昭一郎教授、次いで板倉照教授が同委員をされ、実質的には両教授が編集担当されました。特に宇治教授は最初から編纂室委員として医学部・附属病院関係共に編集に奔走されました。退官を迎えられた板倉名誉教授の後を受け、私は原稿の再校と第35回の編纂室委員会に出席しただけで、編集後記を書くには実感が伴わない。
 医学部では、すでに50年史は刊行済であり、「三重大学五十年史」においては国立移管後の内容に関するものが主となった。医学部関係の通史に関しては「三重大学医学部五十年史」に詳しく記載されている。学生の頃、「数百年の歴史を誇るヨーロッパの大学に比べれば、わが国の大学の歴史は数十年にすぎない、いずれの大学も出発点にある」とお世辞を述べた教授もおられたが、その後、伝統ある大学で研究をしてみると、50年の差は現在の三重大学の内容から判断して比較にならない。現在医学部では、附属病院を含め再開発が本格的に検討されているが、この変革の時代に将来像が掴めず、国の財政難とも重なり、なかなかソフトが出来ないのが現状である。今後、三重大学がどのように発展するのか、全く予測すら出来ない、現状から見て悲観材料が多すぎる。はたしてどのような100周年を迎えることが出来るのであろうか。わが国の将来の繁栄のためにも教育・研究の更なる投資を期待する。幸い医学部では、学部長が中心となり全教官が将来の更なる発展に向けて、充分に動機づけされている。三重大学にしか見られないユニークなソフトが出来ることを楽しみにしている。
 最後に、多忙にも拘わらず執筆にご協力下さいました名誉教授の諸先生および学内外の諸先生方に深く感謝を申し上げます。

医学部 中野勝麿


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 医学部、附属病院の部局史の編纂にあたり、多くの方々に執筆を依頼いたしましたが、どなたも快くお引き受けいただき、完成に至りましたことを紙面をお借りして厚くお礼申しあげます。特に羽場喬一名誉教授と草川實名誉教授には全体の執筆項目の企画と多くの項のご執筆をいただきました。医学部50年史が既に刊行されていますので、本記念誌では国立移管から現在に至る変遷、そして将来の展望に重点をおいて編集を進めましたが、両名誉教授の執筆企画によって医学部、附属病院の歴史が無駄なく、簡潔に書き記されたと思います。
 一方、様々な角度からの歴史の検証も必要ですが、ページ数制限の中では書き尽くせないことが多く、執筆者の方々に不自由をおかけしたことをお詫び申しあげます。このたび編纂に加わりまして、50年の歴史の重みをあらためて感じ、私たちが今日在るは、先人の苦労のお陰であると痛感した次第です。

医学部 宇治幸隆

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 1993(平成5)年10月に、本学での在任期間が長いというそれだけの理由で、三重大学開学50周年記念誌の編集委員(工学部)ということになりました。記念誌の刊行は、まだまだ先のことと思っていましたが、あっという問にその時期になりました。
 同様に、歳月人を待たずの例えの通り月日の経つのは速く、三重大学も誕生して50周年ということになりました。2分の1世紀経ったということです。この間、多くの先達の努力により、教育学部と農学部の2学部でスタートした本学も、1969(昭和44)年に工学部の創設が、1972(昭和47)年に三重県立大学の国立大学(三重大学)ヘの移管が、さらに、1983(昭和58)年に人文学部の創設があり、現在の隆盛を見るに至っています。短期間に、これほど拡大・拡充した国立大学も珍しいのではないでしょうか。
 また、本年は奇しくも私共の工学部の創設30周年に当たり、6月19日に記念式典・シンポジウムが行われました。三重大学の創設50周年に対し工学部の貢献は30年ですが、それは本学にとっても工学部にとっても種々の組織の新設・改組の連続で、まさに変動・変革の時代であったと言えるでしょう。
 この間の経緯を、古い記録・資料、記憶をたどって原稿を執筆していただいた教職員の方々、また既に退官された教職員および関係者の方々には、ご理解ご協力をいただいたとはいえ、大変なご苦労をおかけしたことと存じます。
 お寄せいただいた多くの玉稿により、この時期に整理し残しておかなければ散逸するであろう種々の記録・資料が創立50周年記念誌に凝集されたことは、誠に意義深いものと考えます。
 本学も大きな組織となりましたが、いかなる組織もいわゆる良い人(人材)がいなければ、良い組織にはなりません。大学も然りで、良い教員と良い学生がいなければ良い大学にはなり得ません.このことが叶えば、本学が抱える全ての問題は自ずと正しい方向に解決していぐことでしょう。
 次の50年が、本学にとってより実りの多いものとなることを願って、また、種々のご協力をいただいた方々に厚く御礼申し上げ、筆を擱くことにいたします。

工学部 社河内敏彦

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 大小、長短は別として、個人や組織にはそれぞれ固有の歴史がある。1987年10月1日に歴史と性格が異なる農学部と水産学部が合併し、生物資源学部が誕生して早くも12年が経過しようとしている。過去において1972年に農学部では「創立50周年記念誌」、1991年に水産学部では40周年の「三重大学水産学部誌」が刊行された。生物資源学部史を編纂するに当たっての基本方針は、既出版物との重複を避けること、史実に忠実であること、読みやすくするため折々の出来事をコラムとして多く取り入れること、執筆者を限定せず多くの方々に依頼すること等である。企画から脱稿までの限られた期間内にしかも厳しい字数制限下で執筆依頼したところ、ほとんどの方々から快諾を頂いた。仕上がりの結果は制限頁より約50%超過してしまったが、欣快の至りと思っている。通史を含めてこの生物資源学部史が後世のための参考文献になることを自負している。この場を借りてご協力頂いた方々に衷心より謝意を表す。

生物資源学部 市川眞祐

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記念誌編纂室の6年

     附属図書館事務部長 吉田哲廣

 1993年、開学50周年記念誌編纂室が附属図書館内に設置され、図書館職員が記念誌刊行の裏方として編纂事業に携わることとなった。
 記念誌編纂室では、五十年史に関する資料の収集及び整理そして不明事項の調査等、記念誌刊行専門委員会や編纂室委員会の先生方のご指導を受けながら、編集作業の準備を進めた。また、記念誌刊行専門委員会や編纂室委員会の開催に伴い、記念誌編纂室でも熱のこもった打ち合せが頻繁に行われた。
 通史編、資料編、部局史編と原稿が出揃い、初校、再校と進み三校目が印刷所に渡され最終段階、やっと記念誌編纂室の空気が和む。
 1999年9月、「三重大学五十年史」が完成。広く学外の皆様にも読まれ、三重大学への理解と関心がより深まり、“図書館へ行ってみよう”と多数の方がご来館下さることを願っております。最後に、ご指導いただきました先生方に深く感謝を申し上げます。


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記念誌編集事務を終えて

 約6年におよぶ編集事務の、ほんの最後の瞬間に参加させて頂いた。完成に近い原稿を相手にする作業に参加したことで、自部局だけではなく大学全体の歩みの詳細を知ることができた。ありがたいことだと思っている。附属図書館に関していえば、日常は不備ばかりが目についてしまうが、現状の図書館の姿を形作るために、当然のこととはいえ、数多くの人たちの努力の積み重ねがあったことを知って、改めて感激したものだった。

委員会幹事 望月信夫


 平成10年4月から、記念誌編纂室の幹事の一員に加えられました。当初の一年間は、刊行専門委員会と編纂室委員会に出席するだけで、これといったことは何もしておりませんので、このような所で一言する資格はないのですが、編集作業も大詰めの段階で校正の一部を担当させていただき、編纂室の一員としての責任を幾分かでも果たすことができました。一部ではありますが、目を通させていただいた原稿は実に多くの方々の協力により成り立っており、記念誌編纂事業の「重さ」とでも表現すべきものをあらためて認識すると同時に、今50年の節目にあって来し方をそれらの方々と共に振り返ることができましたことを感謝しております。

委員会幹事 萩野三明

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編纂室日誌

平成10年8月21日
 
10月15日

10月21日

11月16日

12月17日

平成11年1月25日

2月26日

3月11日

3月17日

6月18日

6月30日

8月31日

9月29目
 「三重大学五十年史:部局史編」第一次校正(著者校正)依頼

 第31回編纂室委員会

 第24回刊行専門委員会

 第32回編纂室委員会

 第33回編纂室委員会

 第34回編纂室委員会

 第35回編纂室委員会

 「三重大学五十年史:通史編」第一次校正(著者校正)依頼

 第25回刊行専門委員会

 第36回編纂室委員会

 第26回刊行専門委員会

 「三重大学五十年史」最終校了

 第27回刊行専門委員会

*前号の本欄で誤りがありましたので、お詫びして下記のとおり訂正します

追加  平成10年6月25日  第29回編纂室委員会
修正(誤) 平成10年7月15日  第29回編纂室委員会
(正) 平成10年7目15日  第30回編纂室委員会

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あとがき

 ニュースレターも本号が最終となります。ご執筆いただいた諸先生方をはじめ、本誌の呼びかけに応じて、資料や情報の提供ならびに聴き取り調査等にご協力いただいた方々に厚くお礼申し上げます。本誌も足掛け5年、11号分を発行できました。ご愛読、ほんとうに有り難うございました。
 「三重大学五十年史」編集作業については、酒井、上野両先生とともに4日間にわたる印刷所での出張校正を終え、8月末をもってようやく最終校了となりました。1997年4月に本学に赴任して以来、両先生はじめ編纂室委員会や部局編集委員会の先生方のご指示を仰ぎながら編集事務責任者として関わってきましたが、とくに忙しかったこの2年間、実際の編集事務を担っていただいた坂口(現:田中)典世さん、杉村和代さん(ご両名とも退職)に深く感謝するとともに、その献身的な仕事ぶりに敬意を表します。また、編集事務上での情報収集や調査に多大なご協力をいただいた附属図書館の職員ならびに本学の教職員・OBの方々に厚くお礼申し上げます。あとは10月19日の50周年記念式典での「三重大学五十年史」の披露を待つばかりです。多謝。

委員会幹事 隅田雅夫

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<No.11(終刊) 1999年9月29日>
    三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会・同編纂室委員会発行
    津市上浜町1515 TEL 059-231-9660
    第11号担当:三重大学開学50周年記念誌編纂室