ある画人との邂逅

教育学部  山口泰弘

 江戸時代の絵画史を研究している関係上、私の場合、県史や県内市町村史編纂の仕事に関わることがある。
 三重県は、江戸時代、街道の発達や伊勢参宮、伊勢商人の活発な経済活動などによっていまでは想像もつかないほど豊かな地域であった。人の交流や経済の活発化は文化の活性化を引き起こす。文化、なかんずく美術は、江戸や上方を除くいわゆる地方としては例外的ともいってよいほど豊かな遺産を残した地域であることを、この仕事は痛いほど感じさせてくれた。と同時に、歴史の地層の底に埋もれた小さな原石を、図らずも発掘する機会も与えてくれたのである。昨年度に完結した『勢和村史』で取り上げることになった三井丹丘(1729〜1811)という人物との邂逅もそのひとつである。
 丹丘は、江戸時代中後期、医術を生業として現在の三重県多気郡勢和村に一生を送った。丹丘に関わる歴史資料を眺めていくと、彼が様々な文事に幅広く関心を広げていたことがわかる。その範囲は、詩文(漢詩文)、篆刻、和歌、狂歌、書、煎茶などに及ぶ。丹丘のように、本業は本業として生活の基盤とし、そのかたわらでさまざまな文事に傾倒していく人々の存在が、ちょうど丹丘の生まれた18世紀前半、享保年間(1716〜36)ころから次第に顕著になりはじめた。文事を本業とせず、このように余技として励んだ人々を歴史的には「文人」と称している。彼らは、江戸時代中後期という時代の文化の一翼を担う存在として文化史上きわめて重要な存在意義が認められている。医術を終生本業とし、余技としてのみ文事に親しんだ丹丘は、まさにこうした文人に連なる人物なのである。
 丹丘の文人としての余技は、上述のように多方面に及んでいるが、自身最も好み、質的評価からいっても、本領というべきは絵画である。文人の描く絵画を文人画、それを描く文人を文人画家と現代では称するが、この謂でいうと丹丘こそ典型的な文人画家と呼ぶことができる。
 丹丘が文人画に親しみはじめた18世紀半ばころにはまだ、文人画は「異邦の鄙体」(桑山玉洲『絵事鄙言』1799年刊)などと呼ばれ、一部の知識人を除くと、新奇なものとして世間からは疎んじられていた。最先端を走る抽象美術が、現代でも「さっぱりわからない」の一言でそっぽを向かれているのとなんら変わらない。革新的な文人画に取り憑かれ、自らも手を染めることになったのが、江戸でもなく上方でもなく、僻遠の地に一生を過ごしたひとりの医家であったところにこの時代の文化の広がりがうかがわれる。
 18世紀後半、京都は絵画の先進地として池大雅や円山応挙をはじめ多くの画人を擁していたが、画人たちはしばしば、集まっては絵をかき、互いに批評しあい、あるいは展観を催した。こうした集まりを画会という。今日の美術展覧会の遠祖とでもいうべきものである。丹丘も暇を見つけてははるばると京都の画会へと出向いている。こうした画会を通じて吸収した最先端の芸術は、丹丘の遺作をみるとたしかに反映されている。
 しかし、この種の画会に加わった地方画人は、丹丘だけではなかった。全国のまさに津々浦々から最新の絵画を求める画人が京都をめざした。丹丘は、その絵画だけでなく、存在そのものが同時代の文化現象を体現していたといえる。
(やまぐち・やすひろ)

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