三重大学50年史「ニュースレター」

 No. 3(1996. 3. 6 発行)

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ニュースレターの目次


本号の内容


編纂室の窓から

    三重大学名誉教授  酒井 一

 50年史の編纂室は、附属図書館の3階、館長室と壁を隔てた隣りにある。まだ十分資料が集まっていないので、いささかガラーンとした感じだが、居心地はいい。外の景色を眺めながら、他大学のいくつかの年史に目を通して、三重大学らしい特色を考えはじめている。
 部屋の北側からは一般教育の十字校舎の教室がよく見える。教官の熱弁をよそにいつものように何人かの学生が居ねむっている。1時間ほど経つとお目覚めで、疲れがとれたのか前方を見つめている。また一息入れて眺めてみると、授業が終ったらしく、女子学生が数人固まってお弁当を開いている。昼休みである。こちらも空腹を覚えてきた。1年前に退官してからこの部屋に座っていると、肩の力も抜けたのか、さまざまな学園風景も結構楽しく見えてくる。
 新制の国公立大学が誕生したのは、1949年の春過ぎのことで、99年には多くの大学が創立50周年を迎える。他大学でも年史の編纂事業が始まっているようだから、48年に多く発足した私学の新制大学を合わせて、このころには一斉にその成果が公刊されるだろう。そうなると、この時期は日本教育史、とくに高等教育史研究にとって1つの画期になるのかも知れない。通り一遍の本の出版ではことはすまなくなりそうである。18歳人口の減少、産業構造の変化に応じて、大学自体が自己点検、評価をさらに迫られている最中に当たり、それこそユニークな50年史が求められることになるだろう。
 ここ暫く大学の年史類を見てみたが、それぞれに持ち味があって実に興味深い。まず81年発刊の『大阪大学50年史』。50周年を迎えた旧制帝大からのまとめだが、随所に囲い込みのコラムが入っている。「湯川博士と大阪」「教職適格審査委員会の秘密会」等々。湯川秀樹博士が理学部講師時代、アンテナで有名な八木秀次教授によびつけられ、一向に業績のあがらないことを叱責される場面が、相部屋の教官からの聞きとりとしてまとめられている。その直後湯川博士はノーベル賞の受賞対象となる素粒子中間子論をまとめることになる。しかもこのB5判大冊の口絵にその英文の原稿が掲載されている。
 ついで『三重大学医学部50年史』。これまたB5判1618ぺ一ジに及ぶ大冊。旧知の先生方の写真や研究室風景もある。学位問題にかかわる事件も、自然科学者らしい筆致で遠慮なく書いてあって爽やかな読後感がある。それに退官・転勤された教官の小文もあって、お堅い叙述に花を添えている。医学部といえば井沢道学長が退官されたときの記念送別会で聞いた話、小児科研究室に「1日1論文1実験、学ならずんば帰るべからず」と張り出されていたというエピソードを思い出す。
 最後はつい最近出版された『名古屋大学50年史』。通史編だけだが、A5判2巻でこれまたなかなかの力作。市販もされていて、みんなでお読みなさいという自信作である。
 ここでしばらく考え込む。さすが大学だけあって力を尽くした叙述である。手ぬきの編集はゆめゆめ許されない。えてしてこの種の出版は、制度や機構の話が多くなりがちで単調さをまぬがれない。制度的なものは基本、constitutionだ。だが骨組みだけでは建築物としてはまだ用をなさない。そこに住む人間の顔と生活が出てきてこそ建物は生きてくる。そこで一計を案じたのが、大阪大学の前例に学んで、適宜コラムを設けたらどうか、4ぺ一ジに1つの目途で配するとしても200項目が必要。幸いに関係委員会の承認も得て、目下各部局で面白いコラム記事を検討してもらっているところである。コラムは、制度・骨格に色どりを添え、その叙述を補うものになるだろう。室内の額縁、家具、食器にもあてはまるものであろう。骨格に血管、筋肉を添えるものだ。これによって大学で働き学ぶ人たちの生まの声も紹介され、文字資料の行間を埋めるものと期待している。
 先日来おくればせながら、聞き取り調査も開始した。今後、学部新設、改組、学園紛争、キャンパス風景などテーマを立てながら、公的記録の背景をクローズアップしたいと思っている。このような発想の奥には、丸山真男氏の『後衛の位置から』で知ったアリストテレスの言葉がある。「家が住みいいかどうかを判断するのは建築技師でなく、その家に住む人間である」。この比喩を丸山氏は人民主権論として活用しているが、大学がよいかわるいかを考える上でも重要かつ基本的なもののように思われる。
 ちょっと難しくなったところで、午後3時、よく気のつくYさんがお茶を運んできてくれた。ありがとう。

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医学部の国立移管回想

     三重大学名誉教授・金沢医科大学客員教授  羽場喬一

 三重大学創立50周年記念誌刊行専門委員会の医学部委員の方から、小生に編纂の気運を盛り上げようとの趣旨だからニュースレターに執筆してほしいとの手紙を頂いた。三重大学が創設されたのは昭和24年(1949)だから当時私は医学部前身の三重県立医科大学予科2年で、20周年の昭和44年(1969)には母校に戻り教室を主宰していた計算になる。その当時は、国立移管を前提に管理棟や基礎校舎が建築中であったものの、まだ県立大学のままであったし、東京大学が学生募集を中止するなど大学紛争の最中であったから、特記することは記憶にない。30周年の昭和54年(1979)は、三吉康郎教授と坂倉康夫助教授(当時)のお世話になって入院していたし、新学部設置を目指して木田宏文部省前大学局長を招き研究集会があったことや、井沢道教授が三上美樹学長の後任に選出されたことを覚えている程度である。それでも、医学部の6年一貫教育や、大阪大学のような学士入学、夜間大学についての議論は常になされていた。40周年に当たる昭和64年すなわち平成元年(1989)は私は学生部長2年目で同級の草川實教授が附属病院長に選出され、45周年の平成6年(1994)に私は定年退官したが、草川教授は前年に国立病院院長に転出されていた。こんな関係で長らく三重大学に厄介になった両名が50周年記念誌刊行の医学部OB執筆責任の役を委員から受け賜った次第である。
 在任中の大事はやはり国立移菅であった。県立大学は着任の翌年鳥居町校舎から江戸橋校舎に移転したが講義は鳥居町で研究や実務は江戸橋で行われ、教授会も県立、国立の二本立てであった。村上長雄教授から教務委員長を引き継いだことから学生、特に留年生の移籍に心を砕いた。このことと大学院の移管や甲乙学位審査で文部省に二回ほど出向き長時間の会議を持ったのであった。
 ご承知のとおり医学部は昭和19年(1944)4月に前身の三重県立医学専門学校として開学し、発足から数えて平成6年(1994)に50周年を迎え、三重大学医学部50年史発刊、西沢潤一東北大学学長、歴史作家司馬遼太郎氏の記念講演、地域医療後援財団設立の三本柱の事業が成功裏に行われた。なかでも医学部50年史は1618頁の労作であって、内容としては明治の医学校から始まり、県私病院、市立病院、県立医学専門学校、県立医科大学、県立大学医学部、国立大学医学部に至る時代背景、人学者選抜、カリキュラムの変遷、医進課程と専門課程、医師国家試験、自治会、大学祭、西日本医科学生体育大会、大学院、学位審査権、卒後研修、関連病院、外国人留学生、附属病院、財政、科学研究費、医療技術短期大学部、主要大学人などの通史が568頁にわたって記載されている。さらに、講座・部局史が654頁、学年史が171頁、クラブ史が111頁、三医会及び医振会史などが114頁とあらゆる面から述べられている。
 したがって、三重大学創立50周年記念誌刊行に携わる医学部の立場は最近2、3年間の追録に努力すればよいわけだから、非常に有り難く大いに恩恵を受けるので記録を残された先人のご労苦に心から尊敬と敬意を表したい。とはいえ、二番せんじは許されないことも知っているつもりで、甚だ荷が重いのも事実である。現在、他大学の関係資料の送付を受けたり、各教室や診療部などに特に重大な出来事をリストアップして貰っているが50周年記念誌の完成を熱望し、折りにふれてご助言ご鞭撻頂きたくお願い申し上げる次第である。

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医学部国立移管の経緯

     三重大学名誉教授  草川 實

 三重大学医学部は昭和19年4月に三重県立医学専門学校として創立されてから三重県立医科大学、三重県立大学医学部、国立移管などの変遷をへて創立50周年を迎え、平成7年3月5日に新築されたばかりの三重大学大講堂において盛大な記念式典が催された。また記念事業の1つとして「三重大学医学部50年史」が刊行され、このなかに医学部50年の詳細な歴史が収載されており医学部発展のために各時代の学校関係者は勿論、多くの県当局の方々、政財界の方々が如何に情熱を傾けて努力されたかを知ることができる。特に県立大学の国立移管は大変困難な事業ではありましたが結果として医学部、三重大学双方にとって大きな飛躍をもたらしたと考えられるので「医学部50年史」のなかから国立移管の経緯について抜粋して紹介する。
 昭和19年に設立された三重県立医学専門学校は戦後幾つかの同規模校が廃校になるなか、昭和22年6月に三重県立医科大学への昇格設置が認められ更に学制改革に伴い昭和25年4月から医学部および水産学部の2学部による三重県立大学が発足することになった。当時文部省は1府県1大学を設置する方針で、三重県では三重高等農林学校と三重高等師範学校が併合して国立三重大学が設立されたが、公立医科大学の国立移管については弘前、群馬、信州、鳥取、徳島の各大学に医学部が設置され、更に昭和28年に広島大学、昭和30年に鹿児島大学に医学部が認められたがその後は一斉に発足した新制大学の整備のために国の予算に余裕がなく国立移管は認められなくなった。この時点で公立として残ったのは県立では神戸、山口、岐阜、奈良、和歌山、福島、三重の各医大であったがこの中、神戸、山口、岐阜は強力な政治力(?)を背景に昭和37年に国立移管を達成した。県立三重大学では昭和39年に医学部内に国立移管調査委員会を発足させ設備、備品、研究費などについて検討した結果、県立と国立の間に大きな較差があることが明らかになり県当局と再三にわたり交渉を重ね、昭和41年4月に県知事より国立三重大学に工学部の設置を要望すると同時に県立三重大学2学部の国立移管の方針を発表するに至った。続いて昭和42年5月には知事と国立三重大学との会合が開かれ当初水産学部と教養部は栗真地区に新築移転、医学部は鳥居町の基礎校舎を改修して使用する予定であったが、多くの新制大学が旧制の高等学校や専門学校を集めて1つの大学として発足したため総合大学とはいえ各学部が旧地に分散しており大学としての機能が十分に果されていないという現状を重視し、最終的に栗真地区の農場を転用して医学部、附属病院も含めすべての施設を1ケ所に集める方針に決定された。この決定は総合大学としての三重大学のその後の発展に大きく貢献した英断であり、また農場の転用を認められた旧農学部に深く感謝したい。
 昭和44年4月の三重大学評議会は県の要請を受けて三重県立大学の国立移管を決定、昭和46年度国立学校特別会計予算に三重大学医学部創設準備経費が計上され、昭和47年から昭和50年の4年間で国立移管を行うためのスケジュールが決定された。建物については医学部基礎校舎および附属病院は県で建設するが臨床研究棟については国が建設することが決り、基礎校舎は昭和45年11月に完成、附属病院は昭和48年3月に竣工し、基礎医学13講座、臨床医学16講座、725床の附属病院の国立移管が達成されたのである。この間国立移管のための運動が始まってから10年の歳月が必要であった。その後医学部には分子病態学、生体防御医学、麻酔学、脳神経外科学、臨床検査医学の各講座、附属病院には診療科として神経内科が、中央診療施設等として分娩部、輸血部、救急部、集中治療部、医療情報部、病理部、周産母子センターが新設され活発な教育、研究、診療活動が行われている。

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資料発掘のお願い

 三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会は、三重大学の半世紀の記録を収集するために、資料の発掘作業をおこなっています。このための資料・写真などをお持ちか、また所在をご存じの方は、下記にご一報いただければと存じます。

三重大学附属図書館内  50周年記念誌編纂室  内線 2213

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<No.3 1996年 3月 6日>
三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会・同編纂室委員会発行
津市上浜町1515 TEL 0592-31-9660
第3号担当委員:宇治幸隆(附属病院) 坂倉照好(医学部)