三重大学50年史「ニュースレター」No. 4(1996. 9. 6 発行) |
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昭和二十四年春、三重大学が出発した。
敗戦後、アメリカの強力な指導を受けて、わが国の教育制度は大変革した。所謂六三制の実施である。その結果各府県に国立大学が一以上設置されることとなり、今まで専門学校であった三重農専、三重師範、三重青年師範とで大学をつくることとなった。これに対して農専の偉い先生の中には大阪大学との統合を期待された動きがあったが、県境を越えての大学は不可ということで、農専→農学部、三重師範・青年師範→学芸学部という二学部で創設されることとなった。
しかし事はそう簡単にはいかなかった。
国立学校設置法が国会に提出され、このことについては与野党の間に意見の不一致はなかったのであるが、例のような国会運営のごたごたにまきこまれて四月開学に間に合わなかった。既に入学試験を実施して新入生がきまっているのであったが、開学が許可されていないので自宅待機させ、法案の国会通過を待つの他はなかった。その中、やっと法案が通過して五月末に開学となった。三重大学の創立記念日が五月三十一日となった所以である。
問題はまだまだあった。学芸学部の中心となるべき師範男子部は戦災で校舎の大部分を失っており、一志郡香良洲町にある旧海軍航空隊跡に移転をしていた。それで学芸学部は本部のある香良洲分校と、旧女子部の亀山分校と、旧青年師範の松阪分校の三地点に分かれての出発となった。新しい大学教育は一般教育と専門教育とに分かれ、学芸学部が全学の一般教育を担当することになった。
両学部が同一の校地にあれば問題はないが、一般教育を受ける学生が四つの校地に分散しているので、教官数の多い香良洲分校所属の教官が手分けして担当することとなり、大部分の教官は今日は香良洲明日は松阪、今日は香良洲明日は農学部といった勤務を余儀なくされ、全教官が一堂に会することは全く困難なことであった。学生はそれぞれ希望の分校で授業を受けたので、全学生が一緒になることもなく、クラブ活動なども成り立たなかった。
故に分校を統合して学芸学部を一ケ所にまとめ、農学部の学生も一般教育を学芸学部で受けるようにすることが喫緊の要務であった。これらの苦しい時期をのりこえて三重大学が上浜地区に五学部の統合された大学になるまでには、尚お相当の時日を要したのである。
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三重大学の設立に伴って、大学の最初の標章が初めて制定されたのは、1950年のことです。その後数十年を経て三重大学も国際化の時代を迎え、1983年にミシガン州立大学と学術交流協定が結ばれましたが、その時、ミシガン州立大学から教育の伝統と歴史をイメージしたメダルが三重大学に寄贈されているのはご存じでしょうか。そしてその時、当大学にもそれに準じた記念メダルを作ろうという気運が高まり、私は、当時の井沢前学長から浜田教育学部長を経て、メダルデザインの依頼を受けました。新しい時代に対応する大学のイメージ作りとしてまず最初に新しいシンボルマークを作成すること、私はこの依頼をデザイン研究課題の一つとして捉え、およそ一年の時間を費やして新しいシンボルマークを構成いたしました(写真A)。そのデザインのコンセプトは次の通りです。
1………MIEの頭文字M
2………UNIVERSITYの頭文字U
3………本やノートを開いたイメージ
4………海、波のイメージ(キャンパスが海に続くという特色を表す)
5………三重大学の旧標章の外形のイメージを尊重する
この5項目をベースにしてまとめたシンボルマークをもとに、メダルのデザインとしては、その表にMIE UNIVERSITYと創立時の年代と新しいマークを配し(写真B)、裏は防風林の松をモチーフとし、海、山を複合構成し、三翠を表したものを作成いたしました。裏面の詩は学生歌の第三節を引用しています(写真C)。
その後、シンボルマークのマニュアル(使用方法・使用例)も作成し、1992年には、評議会において新しい大学のマークとして制定されました。このマニュアルは、現在、本部の庶務課に管理されていますが、いづれ五学部の庶務係にも管理して頂き、広く利用して頂けると幸いです。
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現在の三重大学のキャンパスを簡単に説明すると、大学の敷地は大きく分けて上浜団地、観音寺団地があり、その他に生物資源学部の附属施設が県内に点在している。
上浜団地は大学本部があり、5学部と医学部附属病院及び医療技術短期大学部で構成されている。
敷地は約520,000・を擁し、建物においては延べ面積が約225,000・の規模で国立大学としては平均的な規模である。
この上浜団地の前には伊勢湾が広がっており、すばらしい環境のキャンパスとなっている。
大学の顔である正門は国道23線から少し入った西端に位置し、前に立つと周りに緑を配した本部の白い建物が見える。
東に向かうと、本学創立時からある教育学部の建物がある。
その南には、生物資源学部の茶系色の大きい建物がある。少し東に行くとメインプラザがあり、その周りには一般教育の講義棟、福利厚生施設、図書館が配してある。
プラザを過ぎると南側には総タイル貼りの白い人文学部の校舎がある。
東に目を移すと前方一体が野外グランドとなっており、手前には陸上のトラック、奥にはテニスコート、野球場、サッカーコート、北側にはプールなど各施設が連なっている。
陸上のトラックの南端には三翠ホール(講堂)がある。屋根はキャンパスが海に面していることから貝殻を連想させるデザインとなっている。
このあたりがキャンパスの中央に位置し、東には工学部の建物が立ち並んでいる。
このホールを中心とした数十m幅の東西に伸びたゾーンを共通ゾーンと称し、学内の共同施設や最先端の産学共同研究のエリアとなっている。そのゾーンの南一帯が医学系のゾーンで東から基礎医学校舎から管理棟、臨床研究棟、病棟、外来棟と西に連なっている。
先ほどの共通ゾーンと医療系ゾーンの間にはメイン道路が東西に走り南端が医学系のメインゲイトとなり、国道23号線と交わっている。
これが現在のキャンパス概要であるが、大学のキャンパスが現在に至る経緯を振り返ると、まず三重大学が発足したのは昭和24年で、学芸学部、農学部の2学部であった。
上浜団地には、本部と農学部があり、丸之内団地には、学芸学部があった。その他分校が、県内に数ケ所あった。また この時には現在附属学校団地として使用している観音寺団地を県から借地している。
戦後も間もない時のことで学芸学部の丸之内団地は、本館を除いて戦災ですべて焼失したので、急遽研究、教育にできるだけ支障とならないように緊急度の高い建物から順次建設されていった。年代順にならべると昭和27年に美術工芸棟及び音楽棟を手始めに、28年に職業家政教室、29年学生ホール、社会一般教室、31年プール、33年には鉄筋コンクリート建ての自然科学教室の校舎が立てられ、39年に建てられた体育館で、丸の内キャンパスは概ね完成している。
各棟が東西方向に規則正しく立ち並んでおり当時の時代背景、社会環境などを反映したキャンパスの外観となっている。
上浜団地においては幸いにして戦災の被害を受けることなく、戦前に建設された木造を主とした建物群で構成されている。
本館が正面に位置し、その東側に研究実験棟が、整然と配置されていた。
正面から入ると、樹木が周りに繁茂し、建物とうまく調和し、落ち着いた雰囲気のキャンパスであった。
当時の面影を残している建物としては、昭和7年に立てられた三翠会館があり、今も当時を偲ばす、本学唯一の建物である。
昭和39年からは学芸学部を上浜団地に移転し、効率的な研究、教育環境を確保するためと、老朽化した建物を改築する大事業が始まった。
農学部は、主な建物が3棟からなり42年に完成した。
また42年には今も講義、研究室として使用されている一般教養校舎、屋内体育施設、附属図書館が完成した。
学芸学部は41年に教育学部に名称変更するとともに、専門校舎は43年に完成し、現在は教育学部の主たる校舎となっている。
44年には工学部が設置され現在のエリヤに逐次建設が進められた。
47年には医学部、水産学部が移管され、医学部は現在のゾーンに、水産学部は現在医療技術短期大学部が使用している位置にそれぞれ配置された。
又昭和62年には学際領域の最先端研究のより一層の進展とのもとに、水産学部と農学部が統合され、生物資源学部が発足し、最先端設備が備わった新学部校舎が平成7年に完成している。
以上が大学の発足から現在に至る、キャンパスの経緯であるが、それぞれの時点で大学の研究教育の変化に対応し、又社会のニ一ズにこたえたかたちで、全学的な視野に基づいたキャンパスの計画がなされてきた。
現キャンパスは機能的なエリアがシンプルに配置され、安らぎを与える緑の空間も要所に設けられ、キャンパスに居住する人々に活気を与える、すばらしいキャンパス空間を演出している。
これまでにキャンパスを計画された、関係の方々に深く感謝する次第である。キャンパスを計画するに当たっては、大学の教育研究の成果はもとより、地域社会にも大きな影響をあたえ、改めてキャンパス計画の重要性を感じるところである。
われわれ直接関係する者としては、より姿勢をただして良い計画を立てたいものである。
また最近の先端技術の変化、それに伴う実生活への影響の激しさは、かって体験しえなかったものであり、未来を頭に描いてのキャンパス計画の難しさを痛切に感じるところである。
時の流れに耐えうるキャンパスを計画するには、三重大学の将来のあるべき姿を創造するのはもとより、大学を取り巻く環境すなわち、地域社会あるいは、社会の方向性等をいかに深く理解するかによると思うが、施設に関わる者だけではなく大学に住む全人が明日のキャンパスを考えることが一番大切なことだと思う。
それでは最後に、今後ともキャンパスの維持保全、環境と住む人にやさしいキャンパス造りにご協力をお願いします。
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1949(昭和24)年5月31日、学芸学部、農学部の2学部からなる三重大学の発足時、附属図書館は学部図書館として出発した。同年12月には両者とも名称が分館に変更されたが、館長、事務主任を別に置き、いちおう附属図書館の形をととのえたのは翌1950年であった。この際も両分館はそのまま存続した。附属図書館としての組織が確立したのは、1959年のことである。
施設は両学部の前身校のものが使用された。学芸学部では三重師範学校と三重青年師範学校の、農学部では三重農林専門学校の施設が使用された。三重師範学校は、男子部の置かれていた津市丸之内校舎が戦災を受け、一志郡香良洲町の海軍航空隊跡に移転していた。女子部の方は鈴鹿郡亀山町にあって、空襲を免れていた。この両者が、学芸学部の香良洲分校、亀山分校となり、それぞれの図書室が使用された。学芸学部のもう一つの前身である三重青年師範学校は松阪分校となり、ここの図書室も使用された。このように、当初、学芸学部図書館では三つの施設が使用された。1951年、事務部のみが置かれていた丸之内校舎へ3分校が統合され、図書館も焼け残っていた本館2階の中央部に統合された。もともと、ここは、昭和初期における丸之内校舎の改築で、図書室が設けられた場所であった。この施設は1967年、上浜統合地区(現キャンパス)に附属図書館が新築されるまで使用された。
一方、農学部図書館となった三重農林専門学校の図書館は、1924(大正13)年に建てられたもので、鉄筋コンクリート造り2階建で書庫と木造2階建ての閲覧室からなっていた。農学部の場合も、前記の附属図書館新館に移る前に、この施設から、それまで農芸化学の研究室であった建物に場所を移している。1965年頃の、旧農学部二号館の建設にからんでの移転であった。この建物の一部は現在も残っている。教育学部専門校舎一号館のコの字型の開口部にあたる場所に、少し斜めに建っている2階建てのそれである。「教育学部のへソ」とか「ゲンショクトウ」などと呼ばれているそうである。
1967年に新築された附属図書館は、現在学生部のある建物で、外観は図書館の当時とあまり変わっていない。1978年に現在の附属図書館が建設されるまでのやく10年間使用され、苦難の時期も経ている。最後の何年かは、大学の発展に伴う蔵書の増加で収蔵場所が無くなり、2階の床にまで積み上げられた箱詰め図書の重みに悲鳴をあげていた。また、学内紛争の時期には、トバッチリでガラスを割られ、落書きをされ、書庫の外壁に登山用のアンカーを打ち込まれたこともあった。
1972年の三重県立大学の国立移管では、県立大学附属図書館の蔵書のみが移管された。
現在の施設は、十分検討されただけに良くできており、増築の機会にも恵まれた。ただ、次の増築に課題を残している。
以上、現在わかっているなかから、施設の変遷の概略を紹介しました。
さて、ここまでは、意識的に「……であった。」のように書いてきました。部局史の編纂に携わることになり、分担して資料の収集と執筆を進めていますが、そもそも、少ない資料をつなぎ合わせていくようなことの是非から、このような言葉使いのことまで、気にかかることが多くなってきました。自分史ひとつ書けそうにない者のこの心境は、「門外漢見ていたように史を綴り」と、聞いたことのある川柳まがいのものであります。
さいごに、記事の事実関係、年代などの誤りにお気づきの方、前記「ゲンショクトウ」の由来や意味など、なにか関係のある資料・情報をお持ちの方は、ご一報くだだるようお願いします。
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三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会は、三重大学の半世紀の記録を収集するために、資料の発掘作業を行っています。このための資料・写真などをお持ちか、また所在をご存じの方は、下記にご一報いただければと存じます。
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