三重大学50年史「ニュースレター」

 No. 6(1997. 3. 17 発行)

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ニュースレターの目次


本号の内容


三重大学医学部の現況と将来

              医学部長  矢谷隆一

 医学・医療をとりまく環境の変化に伴い、医学部でもさまざまな改革、再編成を行って参りましたが、この場をお借りして現在の状況、今後の展望についてご報告申し上げます。
 戦後五十年を経てさまざまな制度が疲労をおこして機能不全を起こしている昨今の状況は医学部に置いても当てはまるものと考えられます。医学部の創立五十周年の行事、事業を成功裡に終えた今、百周年を迎えられるような医学部の改革が急務となっております。そのために医学部の主要な任務である教育・研究・診療の各分野で個性豊かな三重大医学部を作り上げなければなりません。
 教育の分野では、これまでの主要な方式であった講義による受け身の教育から、自ら考え能動的に学習するチュートリアル方式へと移行されます。卒前の臨床実習は大学病院内で見学を主として行われて参りましたが、今後は見学ではなく、医療チームの一員として、医師の監督下で実際の医療に参加していくクリニカルクラークシップが取り入れられます。また附属病院以外の関連病院でも可能な限りクリニカルクラークシップを実行させていただくよう検討をお願い致しております。
 研究面では、まず大学院の機構改革を行わなければなりません。現在の講座制の枠から離れ、大学院独立専攻過程をつくるべく現在計画が進められております。また今後学部講座にとらわれない教育、研究体制を目指し、医学部公開討論会を持ち、基礎・臨床の区別なく活発に討論を行って参ります。また多様な人材の確保のため、社会人の受け人れを可能とするよう、大学院の昼夜開講を具体的に検討中であります。若手研究者を対象に基礎、臨床にまたがる研究プロジェクトの募集を平成五年から行っておりますが、今後は枠を広げ実施されることになっております。
 診療面では、附属病院で周産母子センターが設置されたのを受け、今後臓器別のセンター化が構想されております。関連病院との関係もこれまで以上に緊密なものとし、機能的なMie Medical Complexの構築を推進中であります。
 全体的な問題といたしましては、医学部・附属病院が竣工後三十年近くになったことと、国の耐震基準が改正になったため、一部の手直しでは対応できなくなったため、抜本的な再聞発整備が計画されております。また医療における看護の重要さに鑑み、医学部看護学科の設置に努力いたして参りましたが、平成9年l0月に設置が決定されました。
 次の五十年に向け三重大学医学部は今後抜本的な改革を行わなければなりません。三重大学の創立50周年を一つの区切りとして、さらなる発展に医学部教職員一同努力する決意であります。

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戦後体験と大学(病院)改革

     三重大学医学部附属病院長  鈴木宏志

 昭和59年7月の「学園だより」77号に書いたことではあるがもう一度書く。終戦の年、私は国民学校(小学校)3年生だった。戦争が終わって、日本は敗けたのだと知らされてから一月ほどして教室に呼び集められた私どもは先生の指示に従って教科書のあちこちに墨を塗ることになった。記憶はさだかでないが、朝日新聞の記事(昭和59年5月24日、13版、17面)によると、昭和l6年から使用され、濃厚な国家主義的戦時教材が盛り込まれた第5期国定教科書の中でも、最も激しい内容とされる「初等科国語六」は154頁中118頁が墨で塗りつぶすよう指示されていたという。
 要するに昨日まで絶対の権威をもっていた神国思想、軍国思想を抹殺するのに、教科書の特定箇所を墨で塗りつぶし、「無かったものとする」という安易な考えである。何故その部分を塗りつぶし、忘れ去らなければならないかについての説明は一切なかった。
 このことは二重の意味で私どもの世代に深刻な影響を与えた。一つは、これまで神聖なものであり、墨で塗りつぶすことはおろか内容に疑問を持つことさえ許されなかった教科書がこんなに容易に否定されうるものだったのか、という価値観の崩壊である。もう一つは、よるべき絶対者を失った虚脱感であり、生きて行くための支えを自分で見いださなければならなくなったことである(これは終戦後に新興宗教が雨後の筍のように輩出したことに始まって、最近のオウム教まで影響を及ぼしている)。
 このような戦後体験が大学(病院)改革にどのようにかかわるかを一言でいうと、「改革」という「錦の御旗」を鵜呑みにはできないことである。「改革」を唱える限り旧弊とそしられることはなく、「改革」に疑問を挟むものは象牙の塔に住む巨怪のようにうけとられる風潮は、戦後のいわゆる「進歩的文化人」の言動に通じるものがあるように私には思える。
 歴史を繙くならば、「改革」とは常に痛みを伴うものであり、痛みと、血を流すことすら厭わない信念がなければならないし、その信念は正しいものでなければならない(何が正しいか後世の評価に待つ場合のあろうが、少なくともその正当性は同時代人に納得させる説得力をもったものでなければならないであろう)。
 附属病院長として、「改革」をすすめるならば、他人(文部省を含めた)から与えられたものでなく、自分の思想として体系づけることの出来る「2l世紀の医療と医療人のあるべき姿」をもち、その理想に近づけるための「病院改革」をすすめるべきことをことあるごとに言い募ってきた。このため、病院あるいは医学部内でいささか顰蹙を買ったようにも思う。それでも、三重大学が50周年を迎えて新しい途を模索すべき今、私どもの求める「改革」によって何がえられるのか、私どもの「改革」が正しいものであるとすればその実現のために何をするべきかを、一度立ち止まって真剣に問い直すことも必要ではないかと「墨塗り教科書世代」の私は思う。

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ヒポクラテスの樹

        医学部教授  中島邦夫

 三重大学医学部のキャンパスには、その昔医聖ヒボクラテス(BC.460-375)が故郷ギリシャのコス島において木陰で若き医学徒に医道を伝授したと伝えられる『ヒポクラテスの樹』(プラタナス、日本名スズカケノキ)の子孫が生肯している。第2生協西にある「医礎の庭」に4本と、第3臨床講義室の北にある1本の計5本である。これらは現在もコス島の市役所と警察署の間に茂る『ヒポクラテスの樹』の老樹からの毬果(種子)を1969年新潟大学医学部の蒲原宏氏(現日本医史学会理事長)が持ち帰って新潟大学構内に育てられた樹の毬果を、本学部の前解剖学教授・瀧本保名誉教授が1977年に入手して発芽させ、苦労して育てて1982年に植えられたものである。「医礎の庭」はl978年に建立されたが、その植林の中程には本学医学部の学徒と医学の発展のために献体された県下の方々の御霊をお慰めするため、三重県産の所謂“那智”黒石、正しくは熊野石の巨石からなる慰霊碑「醫之礎」(当時の武田進医学部長の書による)と御霊の奉安所があり、参道には計37トンもの菰野石が配置されている。また、実験動物の慰霊碑も併設されている。なお「醫之礎」及び「医礎の庭」の名は公募の上、共に瀧本名誉教授の案に決定されたものである。このように整備された医学部のキャンパスで『ヒポクラテスの樹』は現在大きく育ち、高い枝には沢山の鈴を懸けたように毬果を実らせている。それはあたかも、遠く二千四百年前の医道の精神を現代に伝えると共に、三重大学キャンパスにおいて医学徒達が刻苦勉励して育ち行くのを静かに見守っているかのようである。
 医学部は開学以来、全ての先達お一人一人の種々の分野での血のにじむような努力の積み重ねによって今日まで発展して来たが、受難の時も多々あった。医学部の歴史は正式には昭和19(l944)年に津市塔世橋北西に設立された三重県立医学専門学校以来とされているが、実は明治9(l876)年5月に塔世橋北西の同じ場所(当時は安濃郡塔世村箕手山)にあった藤堂八雲の持家を県が借りて医学校と病院が始められ、翌10年2月に県が買上げて三重県医学校が発足しているのである。それは明治17年には三重県甲種医学校として整備されたものの、県の財政難と国の意向もあって明治19年3月31日をもって閉鎖の憂き目を見ることとなった。その年に国は、帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令を公布して医学校以前の教育の整備に迫われる余裕のない時期であった。わずかl0年問のみ存続した三重県医学校であったが、後に岡山医専校長となられる筒井八百珠氏、金沢医大附属病院長となられる下平用彩氏、三重県駆梅病院長となられる西塚泰三郎氏、他多くの優俊が卒業しておられる。西塚泰三郎の長男泰順氏は満州医大、名市大医学部教授、次男忠義氏は愛知学院歯学部教授、泰順氏の艮男泰章氏は三重県大医学部教授のあと愛知がんセンター所長、次男泰美氏は神戸大学医学部教授のあと神戸大学学長になられたことはよく知られている。
 塔世橋北西の三重県医学校の建物は、明治19年から民問に貸与されて私営病院となり、明治43年に津市立病院となって存続し、昭和l9(1944)年4月に三重県立医学専門学校及び附属病院として復活した。それはさらに昭和23(l948)4月三重県立医科大学、昭和25(l950)年4月三重県立大学医学部(他に水産学部設置)に発展し、昭和34年には大学院博士課程が設置された。昭和47(1972)年4月に至り、医学部は水産学部と共に国立に移管して三重大学に合流し、あとに准看護婦学校を残して附属病院・附属看護学校と共に上浜地区江戸橋の地に移転した。翌昭和48年には新基礎校舎、臨床講義棟、附属病院、看護婦宿舎が完成した。その後附属看護学校は平成3(l99l)年4月に三重大学医療技術短期大学部となって水産学部が使用していた校舎に移転し、本年(平成9年)10月には四年制の医学部看護学科に昇格することが決定した。塔世橋北西の現鳥居町のI日三重県立大学校舎は三重県立看護学校、さらに三重県立看護短大として存続したが、本年平成9年4月にやはり四年制の三重県立看護大学に昇格し、一身田大古曽のモダンな新校舎に移転することとなった。かくして三重県医学校設立からl20年、三重県立医学専門学校設立から数えても52年、塔世橋北西の地にともった学びの灯はここに消えることになった。
 さて、創立後50周年となる三重大学は、それぞれ大学院を持つ5学部からなる総合大学として第2の発展期を迎えようとしている。医学部においても現在、教育、研究、診療の各方面について、改革あるいはその計画が鋭意進められつつある。教育面では、チュートリアル教育とクリニカルクラークシップを軸とした少人数能動学習型教育への転換が既に平成7年入学生から実施され始めている。研究面では基礎、臨床の研究室の一体化と大学院の一部を大学院大学方式とする独立専攻科の設置が計画され、診療面では複数の診療科を有機的に統合したセンター化構想が具体化しつつある。さらに第4の分野として、上記3分野の組織やソフト面での改革をより効率的にするため、10年以内をめどにした医学部と附属病院の全面改築構想も練られ始めている。附属病院の改築基準である30年は、あと6年後に迫っているのである。  本学部が始めているチュートリアル教育やクリニカルクラークシップ、あるいは2名に1体の解剖実習等の少人数能動学習型教育は、既に社会において高い評価を受けつつある。受験生の問にも本学部の人気が年々高まり、平成9年度入学試験における三重大学医学部の難易度は、平成8年9月の全国模試の時点でついに東大理III、京大医等と並んでMクラスにランクされたのである。医学部教官からはうれしい悲鳴が挙げられたが、平成9年1月の時点ではこれがやや下がり、むしろホッと胸をなで下ろした人も多かったようである。学部・大学院・附属病院の改革には文部省との折衝や予算の問題もあるため今後も紆余曲折が予測されるが、l0年後には総合再開発が完成して名実共に新しく脱皮した三重大学医学部の姿を見ることが楽しみである。

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資科発掘のお願い

 三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会は、三重大学の半世紀の記録を収集するために、資料の発掘作業を行っています。このための資料・写真などをお持ちか、また所在をご存じの方は、下記にご一報いただければと存じます。

三重大学附属図書館内  50周年記念誌編纂室  内線 2213

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<No.6 1997年3月17日>
三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会・同編纂室委員会発行
津市上浜町1515 TEL 059-231-9660
第6号担当委員 宇治幸隆(附属病院) 坂倉照好(医学部)