三重大学50年史「ニュースレター」No. 10(1998. 7. 30 発行) |
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三重大学開学50周年記念誌の刊行事業が始まってから5年目を迎えます。発足当時の意気込みに一時的に中だるみ状況もありましたが、多くの方々の協力をいただきながらいよいよこの事業もゴ−ルが見えはじめました。この間に開催された刊行専門委員会は、23回にも及びます。また通史編と資料編を担当しています編纂室委員会の開催も、すでに30回を数えました。こうした委員会開催の数の多さとともに、資料の収集からその整理などの煩雑な作業や本格的な執筆といった実質的な面でも、多くの成果を得ることができました。現在は完全に原稿が出揃うまであと少しといった状況になっています。
私たちは、この事業を通して50年という時代の長さと深さを検証するなかで、人も物も変わることの意味を実感し、それを単なる郷愁としてではなく、三重大学史として意義づけることを学ぶことができました。この事業のなかで得た多くの人との出会いを財産とするとともに、収集できた資料や写真などを確実に保存することも事業の目的であろうと思っています。
この夏から記念誌の印刷作業が開始されます。開学50周年にあたる来年の三重大学創立記念日の5月末に照準を合わせ、このためのスケジュ−ルを組みました。今後は、校正や印刷・製本作業を順調に運ばせることが必要になってきます。執筆いただいた方々はもとより、関係各位のご協力をさらにお願いする次第です。
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国立三重高等農林学校の最後の卒業生となられた作井吉雄様(石川県)、東様(熊本県)当時厚生委員のお二人が後輩のために是非憩いの場所が欲しいとの要望があり、厚生補導部長の荒井先生も、ご同感だった由、それには商売人ならぬ素人で理解のある人を捜しておられたそうです。たまたま斎木嘉一(前歴小学校・国民学校の教員)夫妻が全くの素人であり、また二人の息子を故郷の親元を離れて寮生活をしてそれぞれ高等学校(一高、四高)を経て大学に学ばせた経験を持つことが認められた。斎木の気持ちとしても、息子二人を、世の多くの理解ある人々に温かく見守られたおかげで、無事に学校を卒業させることのできた悦びを、幾分なりとも奉謝したい信念を持っていたので、その任に着かせて頂いた。
しかし、何から始めようかと熟慮の挙句、当時物不足特に食糧難の時代であったので、先ず若い学生さんの空腹を満たしてあげるが第一義と思い付き、学生さんを介してようやく豊津の八千代パンと一志郡より製造の瓶詰甘味飲料(もちろん牛乳は病人用のみ)を探し当て、両製造業の店主を呼んで、学生さんへの奉仕精神にて市価より安く安全なパンと飲み物を提供すべく協力を依頼して、ようやく納得の上、コッペパン1個9円、飲み物10円、芋製飴10円で12個を皿に盛って出したところ大好評で喜ばれた。当時貴重な食糧の甘藷を荒井先生御丹精のを沢山寄付いただいて大釜で蒸して皿に盛って出したらたちまち無くなった次第で、大好評でした。最初は全く商人ならぬ素人の事なれば、この仕事も持続できるのかと学校側は危うく思われて、試みとして取り敢えず雨天体操場北の更衣室の東南の一隅を板で囲い、西に小さな窓を作った所を提供されて始めましたが、名前がなくて学生さんの投票にて学生ホールの名が付きました。だんだん物資も出回るに従い、コッペパンや甘味飲料では満足できずに高級化して菓子パン9円、ジャムサンド・クリームサンド各20円、ハムサンド30円となり、芋飴も後退してチョコレートやクリームビスケット等と学生さんの欲求も上昇して学生ホールの利用者も多くなり、それにつれホールの窓口も小さく、学校のお世話で二度三度と改装されて窓口も広くなりテレビも備え付けていただいた。
いよいよ憩いの場所となって来るにより注文も出て、タバコや切手類をはじめ、文具類ノート等の要求もあり、遂には下駄までも学生さんの郷里より扱って欲しいと送って来られる様になりました。最初から全く資金も器具もないところから始めたホールの事とて、終始資金や必要器具は斎木が持ち出して努力の上、ようやく学生ホールの目的が芽生えはじめた次第。学校よりも農場で飼育の牛乳およびこれが加工のヨーグルトを出して協力頂く様になったので学生ホールはいよいよ活気付いて来た。それにうどんやカレーライス(岡八経営)、書籍文具(三星書店経営)の3部門に分かれましたが、斎木は素より商売気なきゆえ、学生さんを息子の感覚にてズバリ注意がましい言葉にて対応するため、不愉快に思われることも多くあって、窓口で言い争いの様な事も多く、しかし斎木の真意を理解してくださればこそ、十数年学生ホールを維持発展させて頂けた事と感謝しています。学生自治会からも感謝状を頂く様にもなりました。
数十年前を折りにふれ回顧いたします時、当時の学生様はずいぶん御苦労に堪えての御研学でお気の毒でしたが、全てを克服なされてそれぞれお立派に成功を遂げられている御様子に衷心より御感銘申し上げお悦び申し上げる次第でございます。野球、ラグビー、水泳、柔道等々運動部の合宿練習の時にも、各自2合3合持ち寄りのお米を袋に集めてご飯に炊いて欲しいとて、大釜で炊いてあげて喜ばれたり、学期末の集会のクラスごとの茶菓子に紅白饅頭と数種類の飴や干菓子二十円の詰め合わせ包みが好評で、注文を受けて忙しく昼食を忘れたこともありました。暑い盛りには冷たい牛乳やアイスクリームの補給に苦労したこと等々目前に昨日の如く浮かんでまいります。大変不手際で失礼の多かった経営ながら十年余を大過なく学生ホール繁盛に努力出来ました事は、全く学校当局のご理解とご援助のお陰と学生の方にもご理解ご協力をいただいた賜物によることと感謝しております。当初以来の奉仕の精神を微力ながら達成させていただいたことにも感謝すると共に、失礼の数々をお詫び申し上げる次第でございます。
とくに学生ホールを印象深く思って下さった方々は、未だにホールのコッペパンの小母ちゃんの愛称を以て語り草にして頂く由を承り、そのたびごとに目頭も熱くなり、感謝と共に汗顔の至りでお詫びと喜びの気持ちで一杯でございます。他の大学には未だ無き学生ホールとて参考に見学にも来られましたので、次第に理想的な立派な学生ホールが出来上がっていることと存じますが、まず最初に誕生した農学部の学生ホールのますますのご発展と創始者の精神を伝承希う次第でございます。久保倉利様は特に熱心にご援助下さいましたし、大畑温憲様、伊勢達一郎様、故大西篤一様等、大変ご尽力下さいました多くのお方々から毎年年賀状やお便りを頂いて、恐縮しながら皆様のご健勝でのご活躍を御祈念申し上げております。
陽気で好奇心旺盛なアメリカ人ファインマンさんの痛快な自伝『ご冗談でしょう、ファインマンさん』I、IIがベストセラーになり、ユーモア溢れる卓抜な人柄が評判になった。10年前に亡くなられた直後、ご友人によって『困ります、ファインマンさん』(大貫昌子訳、岩波書店、1988 )が出版され、この中の「シャベルを持っていきましょうか」というエッセイで、ご夫妻が名松線の終着駅「伊勢奥津(いせおきつ)」の近くの美杉村川上の宿屋に宿泊したくだりが書かれている(巧みな文章で山間の宿の雰囲気がよく書かれているので出版社の許可を得て後註に転載する)。この宿屋「辰巳屋旅館」の主人が三重大学演習林の事務官 岡野 登さんであったということを聞いて、その当時の様子をぜひ50年史に記録しておきたいと思い編集委員長の上野逹彦先生に提案したところ、この宿に1泊して岡野さんから親しくお話を伺う機会を持つことができた。
筆者と上野委員長の他にご一緒したのは藤城郁哉名誉教授、市川眞祐、山本哲朗、鈴木泰之の各先生方と、50年史編纂室を中心に隅田雅夫、田口博和、山田聡子、坂口典世の各事務官の方々総勢10名となった。6月の土曜日午後、三々五々それぞれ雨の中を車で現地に向かい、3時過ぎに辰巳屋旅館に集合した。ファインマン夫妻の泊まられた部屋は、小庭に面した典型的な日本の宿屋という感じの部屋で、鴨居の上には憲政の神様と呼ばれた尾崎咢堂翁から岡野さんの祖父に当たる方への為書きのある書「寸心志」が掛かっていた。エッセイの「シャベルを持っていきましょうか」というタイトルにもなったトイレは、その当時風呂場と共に改築中だったそうで、今では洋式便器もちゃんと整備されており、浴場には素晴らしい香りのする桧の浴槽があった。ファインマンさんは家族風呂を利用されたらしく、エッセイの中で宿の主人とあるのは岡野さんの息子さんのことで、当時小さなお孫さん2人のおもちゃが風呂場に置いてあったようだ。
このファインマンさんゆかりの部屋で岡野さんから当時の話を含めて、演習林、若宮神社、近所の人のことなど、さまざまな逸話が話題になったが、坂口さんの詳細な聞き取りメモと筆者の記憶で要点をまとめた。
妹尾:それでは早速、ファインマンさんが泊まられることになったいきさつからお聞きしたいのですが、世話役の方から直接電話があったのですか?
岡野:はい、そうです。名古屋大学の先生から電話で、『アメリカの有名な先生が、泊まりたいって仰っているんですが・・・』と。えらいことになった、食べるものが違うし、トイレも困る。まだ増築前で、水洗じゃなかったんです。それに英語も解らない。若い者に聞いても単語くらいしか解らん言うし、断ったんです。それでも、『どうしても泊まりたい。食事は何でも食べます。トイレも慣れてますから・・・』って言われて。
妹尾:気さくな方でしたか。
岡野:ええ。『ほっといて下さい』って方でした。
鈴木:お二人だけで見えたんですか。
岡野:ええ、奥様とお二人だけでした。世話役なしで・・・。
鈴木:すごいですね。名松線でしょ。名古屋からだと途中、松阪で乗り換えとかあるんだけどなあ。
一同:(うなずく)
岡野:当時のメモを見ると、12時半の汽車と書いてあります。お昼はもう済ましているみたいで、景色を見て、お宮さんや小学校のほうへ散策に出かけられました。夜になって、次の日は湯の山温泉のホテルを予約してあるけれど、キャンセルしてもう一晩泊まりたいと言いだして・・・。若い者に頼んで先方のホテルに連絡して、事情を説明して断った。
上野:すごいですねえ。ここがよほど気に入ったんでしょうね。2泊されたわけですか?
岡野:8月12日においでになって、2泊して14日の朝、お帰りになりました。9時半の汽車で、息子が駅まで送りましたが、そのとき玄関で撮った写真がこれです。帰るときになって初めて写真を撮ったんですよ。そんな有名な人だって知ってたら、もうちょっとねぇ(笑)。お帰りになった次の日に、朝日新聞から電話が入って、ファインマンさんが来ませんでしたかと聞かれて、そのとき初めて名前が判ったんです。宿帳をつけてもらってなかったんですわ。有名な方と聞いて、えらいこっちゃって(笑)。
妹尾:写真がいいですねえ。奥さんと一緒の写真はそう多くないですよ、私は初めて見ました。こうして見るとファインマンさんは顔もそうですが全体の雰囲気が、一緒にノーベル賞を貰われた朝永振一郎先生と似ていますねえ。
山本:そうですね。私も第一印象でそう思いました。
上野:この写真は50年史にぜひ載せたいですね。貸していただくことはできませんか?
岡野:どうぞ、どうぞ。後は生物資源の先生が演習林へ来られるときに、ことづけて返してもらえばいいです。
上野:2泊3日されたわけですが、その間は何をされていたんですか。
岡野:お寺や小学校をぶらぶら・・・。
鈴木:日本語は? 日本好きな方でしたから少しは話されましたか?
岡野:『こんにちわ』、くらいやったと思います。若い者が辞書を引きながらのやりとりでした。
鈴木:エッセイでは、八幡宮に行ったとき雨に降られて車に乗せてもらったとありますが、迎えに行ったんですか?
岡野:そんなこともあったかなあ。
妹尾:これがその本ですが・・・。
岡野:(しばらく目を通して)よく書いてありますなあ、大体この通りですよ。
妹尾:夕食は何か特別なものを用意されましたか。
岡野:ごく普通のものを出しましたが、なんでも食べられました。慣れているようでしたなあ。
妹尾:日本へは2回目だと思うんです。ノーベル賞をとる前に1回・・・、そのとき泊まった旅館の大浴場で泳いで遊んでいて、湯川秀樹先生に『おい!若いの、少し静かにしろ』って叱られたとか・・・。
鈴木:1953年と55年、そして86年で3回目らしいんですが、今回は昭和でいうと、えーと61年ですね。
岡野:60年だと思いますが・・・、私が昭和60年の3月で三重大学を定年退官してますから・・・。その年の夏、昭和60年の8月です。この話(50年史の取材)があってから、日記を確認しましたから、確かだと思います。
妹尾:この本の記述が昭和61年になっているのは、間違いなのかな。
岡野:不安になってきたから、もう一度確認します。(中座)
藤城:この本は聞き取りで書かれているから、その際に間違いが起きたかも・・・。
岡野:(日記を手に戻ってきて)坂本九さんが亡くなられたことも書いてあるから、間違いありません。この部屋に泊まってもらいました。
藤城:庭に黄色い蛇がいた、って書いてありますが・・・。
岡野:そんなにまっ黄色というわけではないけれど、たまに見かけますねえ。
市川:山かがし(水田付近に多くいる蛇)かなあ。
山本:アルビノ(皮膚などの色素が抜け落ちた動物)の黄みがかったのとか・・・。
妹尾:旅館はいつ頃から?
岡野:この場所へは昭和10年に来ました。その前は若宮さんから300メートルくらい下の所で・・・ここは若宮さんからちょうど2キロです。
妹尾:エッセイではファインマンさんが2才になる女のお子さん(岡野さんにとってはお孫さん)に絵を描いてやったとありますが、残ってませんか?
岡野:ないですねえ。本人はいま松阪に行っていて留守なので、帰ってきたら聞いてみますが、小さい頃のことですので覚えてないでしょうなあ。
一同:それは残念ですねえ。残っているといいんだけれど・・・。
妹尾:ファインマンさんは多才な人でボンゴ(打楽器)を叩くのはよく知られていますが、絵心も相当なもののようですね。(ある本に載っているファインマンの油絵を示しながら)これなんかはタヒチで有名な画家のものに似て・・・。
藤城:ゴーギャンですね。ファインマン物理学の挿し絵なんかも立派なものですよ。
岡野:ほかにも有名人がいろいろ来たことがありまして、中山千夏さんとか。そのときは帰りしなに気がついて、車で追いかけてサインをもらいました。金田一春彦さんも2〜3年前に来たんです。ファインマンさんもそうと知っていればねえ(笑)。
妹尾:いやあ、ファインマンさんは知られずに来るのが良かったんでしょう。だから案内の人も付けずに来たんでしょうな。
岡野:そうですね。気楽な旅が良かったんでしょうな。
妹尾:どうもありがとうございました。ファインマンさんの泊まった部屋で、お話を伺えて有意義な時間を過ごさせていただきました。
この後、三重大生協の芝さんも加わって雨上がりの山間の郷を散策し、夕食では地酒の鑑賞会も開かれて、大いに盛り上がったことは言うまでもない。
註1 この年(昭和60年あるいは61年)ファインマンご夫妻は東京大学での国際会議に招待されて来日し、奥さんの希望でこの地を訪れたらしい。岡野さんの話の中に出てくる仲介した名古屋大学の先生が誰なのか、その後いろいろと手を尽くして調べてみたが、未だにはっきりしない。東京大学の先生なのかもしれない。この調査に当たって名古屋大学名誉教授の村山喬先生の奥様には大変お世話になり、故人の早川幸男先生とか坂田昌一先生の奥様にまで電話で聞いていただいたが、この年のファインマンさんについてはどなたも記憶がないということであった。
註2 「シャベルを持っていきましょうか」(『困ります、ファインマンさん』大貫昌子訳、岩波書店、1988)から一部転載(p.136-140)
おことわり・・・冊子体「ニュースレター」に掲載させていただきましたが、こちらでは控えさせていただきます。恐縮ですが冊子体「ニュースレター」でご覧になるか、図書館の学生用図書にもありますのでそちらをご利用下さい。(編纂室)
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平成10年8月 第1次原稿初校(著者校正)
第2次印刷発注(追加分)
12月 三校
平成11年3月 最終確認
5月 三重大学50年史刊行
平成10年4月13日(月) 第27回編纂室委員会
4月22日(水) 第22回刊行専門委員会
6月15日(月) 追加原稿(原稿締切日以後、5月末日までの事項)依頼
5月21日(木) 第28回編纂室委員会
7月 8日(水) 第1次印刷発注
7月15日(水) 第23回刊行専門委員会
7月15日(水) 第29回編纂室委員会
通史原稿を印刷所に渡してホット一息。でも8月は校正に追われます。(杉 村)
印刷発注とニュースレターの発効月(今回は編纂室が担当しました)が重なったので大忙しの6〜7月でした。(坂 口)
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