「学塔」No. 97

(1997. 10. 15 発行)

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三重大学附属図書館報「学塔」


本号の内容


スポーツ文化のゆくえ

教育学部 山本 俊彦

 高齢化や情報化、余暇の拡大や価値観の多様化など、時代の変化のなかでスポーツの需要が急速に高まってきている。これまで一部の限られた人々の占有物であったスポーツが、いまや私たちの周りに溢れ、生活の必需品として重要な位置を占めるようになってきている。
 また、スポーツはするもの、見るものであるばかりではなく、身につけるもの、感じるものへと拡大してきており、さらには明るさ、清潔さといったスポーツのイメージが、メディアや企業の経営戦略にも利用されるようになり、多様なスポーツ消費を生み出すとともに、スポーツは時代の感性をリードし、スポーツ感覚は、新しいライフスタイルの中核としてとらえられるようになってきている。
 しかし、このようにスポーツに大きな関心が寄せられ、スポーツが隆盛になるにつれてさまざまな問題状況が生まれ、スポーツの質やスポーツの責任が問われるようになってきているのも事実である。
 スポーツは、単なる生物学的な欲求の発現としての活動ではなく、人間がその歴史のながで創りだし洗練させてきたひとつの文化である。
 文化は、人々の価値観や望ましい行動を決定するといわれるが、スポ一ツが脚光を浴び市民権を確立しようとしているいま、スポ一ツの文化としての質を問い、そのありようを相対化しながら、スポーツ文化をより人間的な文化へと高めていく努力が求められている。

スポ一ツ文化の特質
 一般的に、スポーツは競争をともなう身体活動であると同時に、プレイ(遊戯)の性格を有する活動として定義される。プレイとは、日常生活から隔離された自由で非生産的な活動であり、スポーツは、本来的に他の何らかの目的や価値を実現するための手段ではなく、スポーツすること自体に目的をもち、それが楽しさや喜びにつながるような自己目的的、自己完結的な活動である。また、スポーツはルールによる支配のもとで行なわれる活動である。スポーツに参加する人は、そのルールを甘んじて受け入れ遵守しなければならない。ルールは、スポーツの価値を実体化し、行動を秩序づける基準であり、そこに平等や公正の原則、フェアプレーやスポーツマンシップの精神が生まれ、ルールが存在することにより、スポーツはそのプレイ性(自由さ、自己完結性)が保障されることになる。
 このようにスポーツは、「人間の生活を豊かにし、生を充足させるために人間の身体を媒介として欲求を方向づけるように開発・工夫、組織化・秩序化されてきたもので、社会によって承認された独自の価値と意味をもつ活動」であり、音楽や美術などの芸術や文学と同じよう、人間の生活において固有の領域を占める文化である。しかし、禁欲主義的であり、身体性にかかわる領域を知性や感性の領域よりも一段低いものとみなす文化的風土を形成してきたわが国においては、これまでスポーツは文化としての地位を与えられてこなかった。また、スポーツが教育としての体育を中心に取り上げられ、論じられてきたという歴史的背景のなかで、スポーツは目的的な文化というよりも、身体と精神を鍛え、望ましい人間形成を図る手段的な文化として位置付けられてきた。
 スポーツが文化として成熟するためには、スポーツはプレイ(遊戯)であり、人生をエンジョイするためのものであること、人間がスポーツに求めてきた根源的な意味や価値は、有用性の彼方にあるものへの欲求であり、活動それ自体の楽しさとおもしろさ、そこに生じる醍醐味や感動であることを再認することが大切になってくるのではなかろうか。スポーツは、「人間の本性や感情を表現し、伝達するシンボリックなことばであり、人間を人間として開く」ものなのである。

スポ一ツ文化の現在
 人間の行為とその所産であるスポーツは、19世紀イギリスを中心に洗練され組織化されて固有の文化としてその存在価値が社会的に承認されるようになり、さらに楽しみとしての市民スポーツ(大衆化)と、高度な競技力を求めるチャンピオンスポーツ(高度化)という二つの方向を含みながら今日のように拡大し発展してきた。そして、現代社会におけるスポーツ文化は、「スポーツを実践することは、すべての人間にとっての基本的権利である」(ユネスコ体育・スポーツ国際憲章、1978)という理念にも見られるように、人間の存在とその生活にとって切り離しては考えられないほど重要な位置を占めるものとなっている。
 また、現代のスポーツは教育も政治も経済もスポーツなしでは語ることができないといわれるほど、さまざまな社会制度と直接的・間接的に深く関わりあいながら存在し、大きな影響力を持つようになってきているとともに、それらによってコントロールされるといったような事態も少なからず生じてきている。
 4年に一度開催されるオリンピックは、スポーツ文化の最大の祭典として世界中から熱い視線が注がれる。人々は、健康的で平和な雰囲気や、鍛え上げられた肉体とその最高度のパフォーマンスに酔い、テレビを通してリアルタイムのゲームに感動する。このようにオリンピックは華やかなスポーツをおう歌する裏側で、人種や民族差別などの政治問題によるボイコットや不参加、マスメディアによるオリンピックの支配や商業主義、ドーピングといったスポーツの理念を根本から破壊するような現象を多く抱えるものとなっている。スポーツマンは、もはやプレイする人ではなくつくられたマシンであり、企業のエイジェントであり、動く広告塔と化してしまったかのようである。こうしたスポーツの病理的で腐敗的な現象は、オリンピックばかりではなく市民スポーツのなかへも深く浸透してきている。
 このようにスポーツはいま、人間の英知が発明した崇高な文化として大きく花開く一方で、そのありようと文化としての質が問われ、スポーツ文化の歪みの克服と衰退の回避のために外部勢力の論理や介入から解放し、スポーツ自体の論理による自立が強く求められてきている。

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全集・著作集を読む

医学部 伊藤 康彦

 年齢をとってくると、目が悪くなり、読書も億劫になりがちであるが、若い時には出来なかった読書体験も幾つかできる。学生時代に時代と合わせて読んだ本の著者達も人生の晩年を迎えて、あるいは亡くなり、全集や著作集を出版して彼等の人生の一つの総決算を行う。読者としては、ある意味では無責任に、彼等の全言説を解答付で読むことになる。特に社会主義・共産主義やソ連の評価に関してはその感が強い。とは言っても、他人の著作を解答付で読むということは、自分の人生を自分で評価する事に繋がり、時に背筋が冷たく感じる事も多い。
 全集に近い著作集は、著者本人の存命中に出版される場合と、故人となって後に著者の縁りの者が編集して出す場合があるが、時には丸山真男のように著作集発刊の途中で逝去する場合もある。私がここ最近で読んだあるいは読んでいるものを挙げて見ると、「清水幾太郎著作集」(講談社)、「谷川雁の仕事」(河出書房新社)、「丸山真男集」(岩波書店)、「廣松渉著作集」(岩波書店)と「藤田省三集」(みすず書房)等がある。これらの著作集の刊行に至る詳しい経過は知る由もないが、著作集の解説や月報を読むとその経過について垣問見られる。「廣松渉著作集」が岩波から発刊された経緯については複雑な事情がありそうだし、丸山真男は自分の命がそう長くないことを自覚したことがその著作集発刊許可を出した理由と思われる。藤田省三は自分の存命中に著作集を出す理由についてそのまえがきで“後ろ姿”と題して述べているが、「谷川雁の仕事」の付録の弔辞を読むと健康状態も余り良くない様で、そのことが本当の発刊理由の様な気がする。
 紆余曲折があったのは「清水幾太郎著作集」で、元々は別の出版社で発行が計画され、新聞にも広告が出たぐらいだ。その広告を見て、すぐに予約購読を申し出たところ、折り返し、都合により発行中止との連絡を受けたのを覚えている。最終的には、「破門の哲学−スピノザの生涯と思想−」(みすず書房)で女性で日本初の哲学学位を受けたと云われている娘さんの清水禮子の責任編集で発刊された。清水幾太郎の言説をどのように評価するかは非常に難しい。この難しさが著作集の出版事情にも関係していそうだ。彼の言説の変化を“本物の転向と言うより変質そのものである”(藤田:転向の思想的研究)の様に、切って捨てるのは簡単であるが、余り生産的だとは思われない。彼の論文を年代順に読んで見ると、平和活動に積極的に参加していた時分の論文の論理と日本の核武装化の主張ともとれる言説の時代の論文の論理は意外と似通っている。例えば、「論文の書き方」(岩波新書)と「戦後を疑う」(講談社)は意外と似ているのです。このことは考えて見れば当り前のことでもある。論じる対象や論じる目的は時代や年齢と共に変わるが、その解析の方法や思考論理は案外変わらないものです。清水幾太郎の表面に出た言説の矛盾は明らかで、戦後転向者の代表というのも疑いのない事実であるが、大事なのはそのことの指摘と共に、言説変更の思想的契機を明らかにすることだと思う。清水幾太郎の転向の思想的契機を解く鍵は、私の見る所、60年安保闘争敗北後の清水の猛勉強の成果である「倫理学ノート」(岩波書店)の“余白”にある次ぎの文章にある。“自然的欲望からの自由において、自ら高い規範を打ち樹て、それへ向かって自己を構成して行こうと努力する少数者(貴族)と、自然的欲望の満足に安心して、トラブルの原因を外部の蔽うもののうちにのみ求め、自己の構成に堪え得ない多数者(大衆)。飢餓の恐怖から解放された時代の道徳は、すべての「大衆」に「貴族」たることを要求することから始まるであろう。しかし、それが不可能であるならば、「大衆」に向かって「貴族」ヘの服従を要求するところから始まるであろう”清水のある立場へのシフトが、思考論理の変化なしに、転向に導いた。少なくともその端緒は。
 あの文章は、時代を背負うべき近頃の若者、特に学生達を見ていると、白分が歳をとったということと相まって、清水が移ったシフトへと誘惑する。そのシフトを拒絶するにはかなりの忍耐力が必要だが、今後も忍耐力を持続したいと思う。著作集や全集を読むことは、彼等の全言説を解答付で読むことだと最初に書いたが、結局の所は、その解答だと思っている事を疑う事が大事で、その意味では、著作集を読むことは振り出しに戻ることでもある。大分前、医学部の新入生オリエンテーションで「清水幾大郎論」を話したことがあるが、数年してから、学生に問うたところ、その内容はおろか清水の“し”の字も覚えていなかった。色々考えてしまう。

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インターネットと著作権

 『IDE現代の高等教育』(民主教育協会)の今年の8月号に名古屋大学の潮木守一先生が面白い事を書いておられる。
 論題は「情報化時代のなかの大学の課題」ということで、近年のインターネットの普及が大学にどのような影響を与えているのか、先生の所属されている大学院国際開発研究科での試みを紹介しつつ論じておられる。大学のホームページのあり方などにも触れられていて、それはそれで興味深いのだが、前置きとして、「紙の上に印刷された文章」と各所にリンクの張られた「インターネット上の文章」を読み較べてみて、後者が如何に可能性を秘めたコミュニケーション手段であるかを、読者に具体的に理解してもらうためとして、この雑誌論文と全く同じ文章を先生御自身のホームページ(http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/faculty/ushiogi/ide9708.htm)にも転載してみたという話と、そのことが出版社の出版権を侵しているのではないかという危惧に対して何らかの解答を得たいということが述べられている。
 出版権侵害か否かの先生なりの解答については、ホームページ上からリンクをたどって読むことができる。それによれば、(1)リンクの結果、両者が表現し伝達する内容は明らかに違っており、リンクの張り方にも創意工夫がある、(2)比較のために2種類の「文章」が必要でどちらを欠いても著者である自分の意図は達成されない、(3)出版社に渡された原稿は、紙媒体に印刷されることを前提としており、電子媒体での公表権まで譲りわたしていない、の3点を論拠として出版権の侵害にはならないと考えておられます。勿論、あくまで個人的な見解であって、インターネット時代の新しい状況に対する問題提起をされているのですが、こういう意見が専門外の場所で述べられ、門外漢にも容易に目に止まるようになっている事自体が面白いと思う。
 最近、通信社関係のサイトを調べていて、リンクの迷路に迷い込んだあげく、偶然たどり着いたホームページに金沢大学法学部がある。その中の「日本の法律のページ」は圧巻である。実際の収録件数は、300件弱だから『六法全書』の三分の一なのだが、一目見た印象では『六法全書』というよりは『現行日本法規』と言っていいほどの多数の法律名がリストアップされている。憲法だけとか、刑法だけというのは見たことがあるが、そんな半端なものではない。といっても、全てが金沢大学で作成したものではなく、大半が他のホームページヘのリンクなのだが、リンクもこのような形で纏まると一つの力を持ってきて圧倒される。
 もともと著作権の権利の目的とならない法令と留保付きの新聞記事(無署名)とでは比較にならないが、この「日本の法律のページ」と、某大新聞社のホームページの著作権に関する警告(?)とを合わせて思い起こした時に、潮木先生の問題提起の持つ意味が広がりをもってくる。
 研究者同士の情報交換が主体だったというバックグラウンドを持つインターネットの世界では、利用する側にとっても提供する側にとっても、従来の「著作権者等の権利を保護」するといった「著作権法」では「文化の発展に寄与する」どころか逆に発展を阻害することにもなりかねない面があることも事実である。人格権の方は本来は法律よりもむしろモラルの面から規制されるべきだと思うが、問題は財産権だろう。財産権については「保護」されるというより、むしろどんどん利用してもらって逆にインターネットを宣伝媒体として活用するという方向にいっている向きもあるようであるが、やはり、電子データ利用に対する課金をどうするか、という議論は最後まで残りそうである。けだし、発想の転換が期待されるところである。
 人格権にもからむ引用の問題では、電子ジャーナルや電子メールならまだしも、URLが不安定であったり、データに改訂履歴がないホームページ上のデータを引用した時に起こる混乱は、違った意味で現在の灰色文献問題以上のものになるだろう。ネチケット・ホームページ上の引用に関する作法等の具体例は、電子メール・電子ジャーナルまでしかないが、オンラインデータベースの考え方を流用するのだろうか。(荻野三明)

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語学学習装置導入

 本年4月から、今まで学生休憩室(2F)として使用していた部屋に、マルチメディアによる語学学習のためのパソコン(Windows95)4台を導入して、語学学習室を新しく設けました。
 マルチメディアパソコン対応のCD-ROMを使った画像と昔声入力による語学学習が可能になりました。現在用意しておりますソフトは、BBC NEW ENGLISH COURSE(6コース、CD24枚)とQUICK ENGLISH(日常会話1・2)(ビジネス会話1・2)(CD4枚)です。

語学学習ソフトの画面  語学学習ソフトの画面

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学内広報誌コーナー

 2Fの休憩コーナーの横に「三重大学広報誌コーナー」を設けました。展示の対象は、「学報」を始めとする広報誌類ですが、広い意味での広報である自己点検報告書も展示しております。
 広報誌につきましては、現在下記の12点を配架しておりますが、各部局・部署におかれましても、他に発行されているものがありましたら、図書館までご寄贈をお願いいたします。

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CA on CD 講習会

 7月2日(水)の午後3時から午後5時30分まで、情報処理センターの教育端未室をお借りして、標記の講習会を開催いたしました。
 講師は(社)化学情報協会より五十嵐康子さんに来ていただきました。
 参加者は、教官・大学院生他あわせて30名の出席がありました。
CAonCD講習会の光景

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有用サイトの紹介

IBM の PATENT SERVER
(http://patent.womplex.ibm.com)

 数年前に、IBMのアルマダン電子図書館が、商用データベースより安価でアクセスしやすい特許情報を、世界各地のIBM社員に提供するために構築した米国特許情報サーバーです。
 元々は部内的なサーバーを、今回無料で公開するにいたったのは、特許が本来公共の情報であることと、インターネットの有用性を広く認識してもらうためであるとしています。
 米国特許商標庁(USPTO)が発行した一部1971年から1973年の部分情報を含む1974年から現在までの特許クレーム及び明細書の特許全文215万件が検索できます。
 DIALOG の U.S.PATENTS FULLTEXT や STN の USPATFULLではできない図面の表示が、特許全文のイメージ情報を取り込むことで可能になっています。
 なお、USPTO 本家のホームページでは、1976年から現在までの情報しか検索できませんし、表示されるのは書誌事項と抄録までで、クレームや明細書の本文は読むことはできません。
PATENT SERVERの検索画面 PATENT SERVERの検索結果

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三重大学附属図書館報「学塔」 No.97
1997年10月15日 三重大学附属図書館発行
津市上浜町1515 TEL 059-232-1211 FAX 059-231-9086