年月日 |
事 項 |
年月日 |
事 項 |
1915.1.26 (大4) 0才 |
三重県北牟婁郡尾鷲町に父・忠兵衛、母・くにの次男として誕生した。 |
1946.4.1 (昭21)31才 |
「文藝」(河出書房)3・4月合併号に土井治「樹霊」が掲載された。 |
1921.4.1 (大10) 6才 |
尾鷲尋常高等小学校へ入学した。 |
1946.4 |
戦後の混乱期に心のよりどころを、と「小説座談会」を始めた。 |
1927.4.1 (昭2) 12才 |
三重県立尾鷲中等学校へ入学した。 |
1946.11.11 |
在郷軍人会分会長であったため、公職追放された。(1951.6.30まで) |
1929.7 (昭4) 14才 |
新任の国語教師の影響で小説(特に夏目漱石)に親しみ始めた。 |
1947.1.17 (昭22) 32才 |
次男文明が誕生した。 |
1931.4.1 (昭6) 16才 |
中学4年修了で成城高等学校文科甲類へ入学した。 |
1948.2.8 (昭23) 33才 |
父・忠兵衛の死に伴い、見世土井家の家督を継いだ。 |
1932.2 (昭7) 17才 |
成城高校文芸部雑誌「城」第7号に小説「失敗はしたが」を発表した。 |
1948.10.3 |
日本基督教団・尾鷲教会において洗礼を受けた。 |
1932.12 |
この頃より日曜学校へ通い始めた。 |
1949.3.14 (昭24) 34才 |
次女章子が誕生した。 |
1934.4.1 (昭9) 19才 |
東京帝国大学文学部英文科へ入学した。 |
1949.4.1 |
尾鷲教会に双葉幼稚舎を設立し、初代舎長となった。 |
1934.5 |
同人雑誌「方向」に参加した。 |
1949.7.10 |
三人の子供たちのためにホーソンの『ワンダーブック』を翻訳した。 |
1935.10.1 (昭10) 20才 |
同人雑誌「群島」7月号に檜山繁樹の筆名で「梶の死」を発表した。 |
1951.3.10 (昭26) 36才 |
地域の文化振興のため、総合雑誌「熊野文化」創刊に尽力した。 |
1936.7.11 (昭11) 21才 |
信濃追分にて立原道造と識りあった。 |
1952.8.19 (昭27) 37才 |
三女佐代子が誕生した。 |
1936.8.27 |
立原道造を尾鷲へ招き、自宅へ泊めるとともに紀州を旅した。 |
1952.11.1 |
初代の尾鷲町教育委員長に選出された。 |
1936.11 |
英文科同級生、今野望、板東俊夫らと同人雑誌「詩と小説」を創刊した。 |
1959.3.31 (昭34) 44才 |
尾鷲市教育委員長を辞任した。 |
1937.3.31 (昭12) 22才 |
英文科を卒業、卒業論文は、「G・メレディスの『エゴイスト』研究」であった。 |
1959.4.1 |
共立女子大学家政学部・専任講師(英語)に就任した。 |
1938.4.1 (昭13) 23才 |
私立獨逸学協会中学校の英語科講師となった。 |
1960.4.26 (昭35) 45才 |
家政学部、教授に昇任した。 |
1939.3.29 (昭14) 24才 |
立原道造の訃報に接した。 |
1985.3.31 (昭60) 70才 |
共立女子大学を退職した。 同年、南海日日新聞会長に就任した。 |
1941.2.18 (昭16) 26才 |
長編小説、檜山繁樹『季節風』(赤門書房)を処女出版した。 |
1988.1 (昭63) 73才 |
英文の図書を年間1万ページ読む計画をたてた。 |
1941.4.17 |
林芳子と結婚し、東京市深川区木場四丁目、土井真澂方に寄寓した。 |
1989.5.8 (平元) 74才 |
東京を引き上げ、尾鷲に戻った。 |
1941.11 |
出版統制により赤門系同人雑誌7誌を合同して「赤門文学」を創刊した。 |
1989.12.8 |
「小説座談会」を30年ぶりに再開した(尾鷲市中央公民館)。 |
1942.3.28 (昭17) 27才 |
獨協中学を退職した。 |
1995.1.26 (平 7) 80才 |
「小説座談会」を終了し、「小説夜ばなし」を新しく始めた。 |
1942.4.8 |
長女苑子が誕生した。 |
1996.9.24 (平8) 81才 |
妻、芳子が他界した(享年76才)。 |
1942.6.23 |
郷里、尾鷲に引き上げた。 |
1999.4.30 (平11) 84才 |
午前3時28分、呼吸不全のため死去した。 |
1943.5.13 (昭18) 28才 |
長男衞が誕生した。 |
2004.6.20 (平16) |
市制50周年記念式典において市政功労者(学術)として表彰された。 |