三重大学レーモンドホールとアントニン・レーモンド

三重大学レーモンドホールとアントニン・レーモンド

三重大学レーモンドホールについて

三重大学キャンパスの南門近くに位置する、三重大学レーモンドホールは、三重大学の源流の一つ、三重県立大学の附属図書館として1951年(昭和26)に建築され、その後現在地に移築されたものです。今では設計者アントニン・レーモンドにちなんで、レーモンドホールと改称され、三重大学では、三翠会館に続く二つ目の登録有形文化財となっています。

レーモンドホール南外観 【 レーモンドホール南面外観(現状) 】

緩勾配で軒出の深い屋根を載せた、開放的な立面が特徴的である。

レーモンドホールの歩み

旧制三重県立医科大学を母体とする三重県立大学は、津市大谷町(現三重県教育センター・三重県立美術館所在地)に1950年(昭和25)に設置されました。翌年には附属図書館(現レーモンドホール)がアントニン・レーモンドの設計で、整備されています。レーモンドの起用は、当時、図書館整備を主導した妹尾左知丸教授とレーモンド事務所所員の岡本剛氏が高校時代の友人であった事によると伝えています。  
三重県立大学は完成期には水産学部と医学部の2学部を擁していました。医学部と大学本部は1959年(昭和34)頃に、安濃川畔の鳥居町キャンパスに移転 したため、大谷町キャンパスは水産学部と一般教育のキャンパスとなり、レーモンドホールも附属図書館から附属図書館水産分館となりました。  
三重県立大学はその後、国立移管、国立三重大学との統合を行う事となり、1969年(昭和44)には、国立三重大学に隣接する江戸橋に移転しました。校地 移転に際して、レーモンドホールのみは江戸橋の現在地に解体移築され、内部間仕切りが変更されて、水産学部関係者のための食堂に転用されました。レーモン ドホールに寄せる三重県立大学関係者の深い想いが偲ばれる移築でした。

縣立大學大谷町キャンパス(航空写真) 【 大谷町キャンパス 】
(『三十周年記念 三重縣立大學誌』)

撮影時期不明。レーモンドホール所在地は空き地となっており、レーモンドホール移築後の撮影と思われる。
大谷町キャンパスの変遷(概略図) 【 大谷町キャンパスの変遷概略 】
(『三十周年記念 三重縣立大學誌』)

* 各施設の配置詳細は画像クリックにて。

水産食堂と称されたレーモンドホールは、1972年(昭和47)からの三重大学への移管後も、引き続き食堂として利用されてきました。水産学部では卒業・ 修了と同窓会入会の祝賀会、謝恩会をこの水産食堂で行うのを恒例とするなど、学生や卒業生、教職員にも親しまれてきましたが、1987年(昭和62)の水 産学部の生物資源学部への改組、1990年(平成2)の新校舎への移転に伴ってその役割を終えることになりました。三重大学では設計者アントニン・レーモンドにちなんで名称もレーモンドホールと改称し、その歴史に関わる記念的建造物として保存活用を図ることとし、2003年(平成15)3月18日付で 登録有形文化財登録基準(平成8年文部省告示第152号)の「二造形の規範となっているもの」に該当するものとして、国登録有形文化財の登録が行われました。

水産食堂内部1(当時) 【 水産学部食堂 当時の内部 1 】
(『水産学四十周年記念三重大学 水産学部誌』)

親しみやすい雰囲気で供されるうどんやカレーライスに人気があった。

建築の特徴

レーモンドホールは木造平屋建で、緩やかな軒出の深い鉄板葺切妻造の屋根を架けています。平面は平側が12尺×7間、妻側が15尺×2間の単純な矩形平面 です。内部は当初、棟通りに間仕切り壁が設けられて、閲覧室と開架書庫に二分されていました。大谷町キャンパスでは、門を入ってすぐ左手に折れると、書庫側を正面として配置され、開放的な閲覧室は溜池に面していました。閲覧室と溜池の間はOUTDOOR READINGとして設計されており、芝生に車座となって談笑する学生たちの姿もしばしば見られました。
江戸橋キャンパスでは、水産学部校舎の南端、水産門(現南門)近くの位置に、東西棟、北入口の建物として配置されています。移築時には旧閲覧室と旧書庫の間の壁が撤去されて、1室の広間に改造されています。また、東面には移築時に増築された鉄筋コンクリート造平屋建の厨房が接続していますが、北面は出入口とガラス窓、南・西面は全面に引き違いガラス戸が用いられ、極めて開放的な外観となっています。

大谷町キャンパス当時のレーモンドホール 【 大谷町キャンパス(三重県立大学)
当時のレーモンドホール 】
(『三十周年記念 三重懸立大學誌』)

この面は閲覧室側で大谷池に面していた。
【 水産学部食堂 当時の内部 2 】
(『水産学四十周年記念三重大学水産学部誌』)

カウンターの奥は、増築された鉄筋コンクリート造の
厨房
水産食堂内部2(当時)

室内には柱・棟木・地棟・母屋・垂木・火打梁などの最小限の丸太材で構成される架構がそのままあらわれ、強い秩序を生み出しています。設計はアントニン・レーモンド、施工は創建時大成建設、移築時は淺沼組です。関連資料としてアントニン・レーモンド建築設計事務所には LIBRARY FOR MIE MEDICAL COLLEGE を件名とし、JOB No.22 と記した設計図計12枚が保存されています。
レーモンドは戦後、このような小径の丸太材を構造材とする一連の木造建築を試みます。その中でも1951年(昭和26)建築のレーモンドホールは同年の麻布自邸とともに、最も早期の作品にあたります。

レーモンドホール内部軸組 レーモンドホール内部
【 レーモンドホール内部軸組 】
丸太材を多用し、構造体をそのまま露出した素朴で明快な構成が見られる。

レーモンドホール建築模型と実測図面

レーモンドホール模型1(展示用) レーモンドホール模型2(展示用)
【 レーモンドホール模型 (展示用) 】

附属図書館1階エントランスロビーには、附属図書館の源流の一つであるレーモンドホール(旧三重県立大学附属図書館)の模型が展示されています。この模型は三重大学で建築を専攻する大学院生・学生がレーモンドホールを実測し、作成したものです。

* 各図面をクリックすると、拡大図面がご覧になれます。

【 現状平面図 】
【 現状平面図 】
【 現状平面図 】
【 現状見上図 】

【 現状西立面図 】
【 現状西立面図 】)
【 現状断面図 】
【 現状断面図 】

【 現状北立面図 】
【 現状北立面図 】
【 現状南立面図 】
 【 現状南立面図 】

建築家アントニン・レーモンド

アントニン・レーモンド(Antonin Raymond 1888~1976)はボヘミア(現チェコ)のグラドノに生まれ、プラーク工科大学を卒業後、渡米し建築事務所で働きはじめました。来日は1919年(大 正8)、帝国ホテル設計を依頼されたフランク・ロイド・ライトのもとでの所員としての来日でした。しかし、翌年には独立し、日本における国際様式建築の先駆者となりました。1937年には国際関係悪化のため離日し、アメリカで設計活動を行いました。その中には、アリゾナ砂漠での焼夷弾の実証実験のために再現された、東京の家並みの木造家屋の設計も含まれていました。レーモンドは終戦後、1948年(昭和23)には再来日して日本での建築活動を再開しています。三重県立大学附属図書館は再来日後間もない時期の作品となりました。レーモンドは依頼を受けて現地を確認した機会に、伊勢神宮へも足を伸ばしています。伊勢神宮との出会いはレーモンドの建築観にも影響を与えたものと思われます。当時は資材が不足していた時期であり、施工の際はレーモンドが進駐軍から手配した資材も用いたと工事関係者により伝えられています。レーモンドは施工が一段階終わるごとに現場を訪れ、厳しい監理を行った事も伝えられています。

参考文献

◆ 『三十周年記念 三重縣立大學誌』、
昭和50年、三重県立大学30年誌編纂委員会編、
三重県立大学創立30周年国立移管記念事業実行委員会
◆ 『水産学部四十周年記念 三重大学水産学部誌』、
平成3年、三重大学水産学部誌編集委員会編、
三重大学水産学部誌発行委員会
◆ 『三重大学五十年史』、
平成11年、三重大学開学50周年記念誌刊行専門委員会編、
三重大学開学50周年記念事業後援会
◆ 『自伝アントニン・レーモンド』、
三沢浩訳、鹿島研究所出版会、
1970年翻訳版初版、2007年翻訳版新版

(2009年7月 菅原洋一)