旅資料に描かれた津のまち
旅資料に描かれた津のまち
旅文化のなかの津のまち
江戸時代に庶民の旅は、娯楽目的では領主に認められなかったため、主に寺社参詣を名目に発展しました。その中心となったのが伊勢参宮です。伊勢神宮の御師たちが、御祓いや伊勢の土産物を持って全国を廻り、参宮を呼び掛け、伊勢講を組織化しました。
講のシステムによって遠国からの参宮客が訪れると、御師らは参宮街道を時には桑名まで出迎え、そして伊勢での宿を提供し、豪華な御馳走を振る舞い、神楽を あげ、各地を案内して廻りました。こうして伊勢の地は、全国から年間4、50万人、お陰参りの年には数百万人が訪れる、一大観光地となったのです。
江戸時代の津のまちは、藤堂氏が支配する伊勢国有数の城下町でしたが、同時に参宮街道の宿場町としても、大いに賑わいました。
馬や駕籠を利用する旅人も居ますが、普通は徒歩で伊勢神宮を目指しました。当時の旅は一つの目的地だけを目指すのではなく、街道沿いの様々な名所や神社仏閣を巡るところに特徴があります。津にも、参宮客が訪れる名所が多数ありました。
『伊勢参宮名所図会』に描かれる津のまち
名所図会は、挿絵を折り込みながら名所・旧跡の由来や土地の風俗などを解説するシリーズで、京都・大坂の書肆から 出版されました。安永9(1780)年に刊行された、京都の名所を案内する『都名所図会』を皮切りに、寛政3(1791)年の 『大和名所図会』、同8年の『和泉名所図会』、『摂津名所図会』と続きます。『伊勢参宮名所図会』は、街道を取り上げた 名所図会の最初のもので、寛政9(1797)年5月に刊行されました。京都の三条大橋から伊勢までの行路を、見聞を元にした記述と、 様々な古典からの引用で紹介します。京都の伝統文化との関わりで参宮街道が描かれるのが特徴です。
作者は秋里籬島(あきさとりとう)と秦石田(はたせきでん)、いずれも他の名所図会作成にも関わった文人です。 挿絵は大坂の画家、蔀関月(しとみかんげつ)と京都の画家、西村中和(にしむらちゅうわ)が担当しました。 伝承に基づく想像の絵もありますが、現地を訪ねて作画した形跡も認められます。ここに描かれた挿絵は、当時の様子を 一定度反映すると考えて良いでしょう。
『伊勢参宮名所図会』 (三重大学附属図書館蔵)
* 画像左から
「表紙」、本文内の「香良洲」、「雲出川」、「垂水成就寺へ向かう西行」
* 『伊勢参宮名所図会』表紙をクリックすると、拡大画面でご覧になれます。
津のまちについては、本文のなかで「七十二町と云 工商軒をならべ繁華冨饒の地也」と賑わいを讃えています。「江戸橋」、「塔世山四天王寺」、「恵日山 観音寺(国府阿弥陀)」の挿絵があり、まちを外れると「阿漕浦」、「香良洲御前社」「雲出川」が描かれます。垂水の成就寺も、西行と稚児との逸話として紹 介されています。
江戸橋
参宮街道を南下してきた旅人は、江戸橋を渡り、三叉路に突き当たります。右へ折れれば京都へ続く道ですが、左へ曲がると津のまちに入ります。
ここには道標と安永6(1777)年に建立された常夜灯がありました。現在の道標は明治以降に建てられたものですが、常夜灯は当時のままです。橋やその周 辺も含め、現在もよくその景観を残していると言えるでしょう。なお、絵の上部には、三叉路を左へ折れた後の街並みの様子が描かれています。
道や橋の上には、旅人のほか、荷物を持った商人や馬、駕籠が往き来する様子も見て取れます。「江戸橋」の名は、藩主が参勤交代で江戸に赴く際に、この橋まで見送りにいくことから名付けられました。江戸橋は、津のまちの入口だったのです。
*(伊勢参宮名所図会 江戸橋)をクリックすると現在の様子と合わせて拡大画面でご覧になれます。
【 伊勢参宮名所図会 江戸橋 】 |
【 現在の江戸橋 】 |
四天王寺
聖徳太子にゆかりの深い四天王寺は、曹洞宗の中本山で、津では最も古い寺です。中世末には一時衰えますが、 藤堂高虎と、その子の高次によって復興しました。聖徳太子像、薬師如来像、織田信長の生母・花屋寿栄尼の墓なども あります。
現在も残る山門の右手に「ばせをつか」(芭蕉塚)も描かれています。当時の境内は現在よりもずっと広く、 太子堂、弁天、天神などの諸社があったことも分かります。
四天王寺を過ぎて塔世川に掛かります。江戸初期には軍事的な目的で架橋されませんでしたが、この時期に 架けられていた橋の様子も見ることができます。
*(伊勢参宮名所図会 四天王寺)をクリックすると現在の様子と合わせて拡大画面でご覧になれます。
【 伊勢参宮名所図会 四天王寺 】 |
【 現在の四天王寺 】 |
恵日山観音寺
津の一番の名所は、津観音(恵日山観音寺)でした。ここでは2月朔日の「鬼おさえの祭」の場面が描かれています。 絵の左端上部に「国府あみだ」(国府阿弥陀)と記された建物が見えます。元々鈴鹿郡国府村無量寿寺にあった阿弥陀仏を、 織田信包がこの地に移したものです(現在は観音寺本堂内に安置)。江戸時代には、伊勢神宮内宮で祀る天照大神の本地仏と 喧伝され、伊勢参宮と合わせて参拝することが流行し、「阿弥陀掛けねば片参り」と言われるほどでした。 *(伊勢参宮名所図会 恵日山観音寺)をクリックすると現在の様子と合わせて拡大画面でご覧になれます。
【 伊勢参宮名所図会 恵日山観音寺 】 |
【 現在の恵日山観音寺 】 |
阿漕浦
阿漕浦は古代・中世には伊勢神宮への献上物(贄)を獲る漁場として、一般の民衆の漁が禁じられていました。 しかし、平治という漁師は、病気の母のために密かに「やがら」という魚を獲り、処罰されてしまいます。この逸話は謡曲や 浄瑠璃の題材となり、広く知られるようになりました。この挿絵は平治が捕らえられる場面を推測して描いていますが、 現在に残る海岸線の松林の様子も見て取れます。 *(伊勢参宮名所図会 阿漕浦)をクリックすると現在の様子と合わせて拡大画面でご覧になれます。
【 伊勢参宮名所図会 阿漕浦 】 |
【 現在の阿漕浦 】 |
様々な旅資料
旅文化の発展に伴い、旅に関する様々な書籍や文書が作成されます。
地名と距離、主要な名所や注意事項等を記した道中案内記は、三都や街道沿いの都市の書肆から刊行 されました。十数丁程度の簡便なものは京都・大坂の旅籠屋たちも作成し、参宮街道などで引札( 宣伝チラシ ) と共に配布して客引きをしました。
参宮街道沿いの旅籠屋も盛んに引札を出しました。名所への案内や荷物運搬を売り物にしたものも見られます。 京都・大坂の旅籠屋と共にネットワークを形成し、旅人への便宜のため地名ごとに旅籠屋名を掲載した 定宿帳や講帳も作られました。
旅人が著した旅日記=道中日記は、主に日付・地名・距離・金銭支出を記録した程度のものが多く、 地名や距離については道中案内記などの記録を参考にしたものと思われます。金銭支出は、講の仲間への 報告の意味もありました。名所や注意事項など、明らかに次に旅に出る者の参考に記したものも見られます。 道中日記は、個人の記録に留まるのではなく、仲間に向けた道中案内記としての性格も持ったのです。
「祇榊講定宿附」(道中案内記)
伊勢神宮の御師と京都の旅籠屋らが連携して作った定宿組合(宿のネットワーク)が発行したもの。 京都から伊勢に至るまでの各地で、推薦する宿屋名が記されます。加えて、距離や名所等も記され、 「道中案内記」としての役割も果たしました。
「津の入口左に江戸橋あり、江戸かいだう(街道)、白子へわかれ道なり」と記され、また観音寺近くの 旅籠屋、「ひやうたんや宗助」(瓢箪屋宗助)の名前も見えます。津の名所として「薬師堂」(四天王寺)、 「国府の阿弥陀」「あこきかうら」が挙げられています。
【 講帳:祇榊講定宿附 】(個人蔵) *画像クリックにて本文・翻字(津の記述部分)がご覧頂けます。 |
道中日記(「伊勢道中日記」)
大規模なお陰参りの発生した文政13(1830)年に、遠江国から訪れた旅人の道中日記。津の町の入口に江戸橋、中ほどに当所橋(塔世橋)、町外れに岩田橋と三つの橋があることが特記されています。
【 伊勢道中日記 】(個人蔵) *画像クリックにて本文・翻字(津の記述部分)がご覧頂けます。 |
道中日記(「参宮上方道中日記」)
天保5(1834)年に陸奥国仙台からの旅人が記した道中日記。観音寺に隣接する国府の阿弥陀如来について、天照大神との関係が述べられています。
【 参宮上方道中日記 】(個人蔵) *画像クリックにて本文・翻字(津の記述部分)がご覧頂けます。 |
講 帳
講帳は定宿帳の一種ですが、京都と伊勢の間など、より小規模の範囲で作られた旅籠屋仲間が刊行したもので す。幕末から明治初期にかけて、盛んに作られました。旅籠屋の名の下に、印を捺す欄が設けられたところに特徴があります。休泊した際や、他の地域の宿を推 薦する場合の旅籠屋の捺印が見られるものも少なくありません。
【 講帳:一新講社 】(個人蔵) *画像クリックにて本文・翻字(津の記述部分)がご覧頂けます。 |
伊勢国の旅籠屋の引札(1)
左側のものが津の「むらたや与兵衛」という旅籠屋の引札で、「国府あみだへ御参詣ノ節御案内仕候」と、国府の阿弥陀仏への案内をサービスとして掲げていま す。中央の引札は伊勢古市の宿屋、「両口や勘十郎」のもの。途中で他の宿引きに惑わされぬ様に、と呼び掛けています。上部に古市の建物の様子が色彩で描か れるのも目を引きます。
【 引札 】(個人蔵) *画像クリックにて翻字(津の記述部分)がご覧頂けます。 |
各地の旅籠屋の引札
右から伊勢六軒の「いそべや利吉」、大阪道頓堀の「○まん半助」、京都三条大橋東詰めの「扇屋正七」の引札ですが、これらに共通して「イセ津 松坂や市兵衛」の朱印が捺されています。津の旅籠屋と京都・大阪の旅籠屋とのつながりが見て取れます。
【 引札 】(個人蔵) *画像クリックにて「イセ津 松坂や市兵衛」の朱印がご確認頂けます。 |
道中日記に描かれた津のまち
旅人が一様に賞賛するのは、70丁余(約8㎞)に亘って街道の両側に町家が建ち並ぶ、津のまちの大きさ、 賑わいです。弘化5(1848)年に上総国(現・千葉県)から訪れた旅人は、建物が関東風で、屋根は、伊勢商人の 大店が建ち並ぶ江戸の大伝馬町に似ているとしています。また、明和4(1767)年に陸奥国耶麻郡(現・福島県)の 者が記すように、町ごとに木戸があるとしている点も注目されます。
伊勢音頭に「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」と謡われる「津」は、伊勢湾岸の諸港を指すとされますが、 天保12(1841)年の上野国(現・群馬県)の旅人の如く、藤堂藩城下町たる津のことと意識した者も、確かに居ました。
◆ 現在の様子 |
【 津城跡 】 【 津城周辺 】 【 観音橋(岩田川) 】 【 町屋(江戸橋界隈) 】 |
津の町で一番の名所は、天照大神の本地仏とされた阿弥陀如来を祀る津観音ですが、それ以外に四天王寺の薬師堂や 閻魔堂に詣でる旅人も少なくありません。 橋についての記述も目立ちます。当時は街並みを少し離れれば大きな川でも橋が架かっていないことが多く、立派な橋は それだけでも注目を集めました。
【 擬宝珠(ぎぼし)】(津市所蔵) *画像クリックにて銘文がご覧頂けます。 |
津への入口の江戸橋のほか、町中には塔世橋がありますが、名鋳物師・辻氏が 寛永12(1635)年に製作した岩田橋の欄干を飾る擬宝珠は、何人もの旅人が特記しています。京都からの参宮道中では、 擬宝珠がある橋は瀬田の唐橋と岩田橋のみでした。武蔵国葛飾郡(現・埼玉県)の者が「日本橋同様之橋有」としたのは、 岩田橋のことでしょう。ここから津城を見た、とした道中日記もあります。
煙草入れが名産として登場していますが、これは明星茶屋近辺の擬革紙の煙草入れと類似の品だったでしょうか。食べ物では菜飯・田楽が名物で、岩田橋近くではサザエの壺焼きを食べさせる店も出ていたようです。
町を離れ、阿漕が浦は、病気の母のために禁を犯して魚を獲って処罰された猟師・平治のゆかりの地でした。この由来書は、閻魔堂前で売っていました。
安政元(1854)年に記された地震道中記は、各地における安政の大地震の被害状況を詳しく書き留めた珍しいものですが、津では閻魔堂の周辺が特に影響を受けたことを記しています。また明治期の道中日記の記載からは、津の町が近代化していく様相を見ることもできます。
【 閻魔堂 】 *画像クリックにて「伊勢参宮名所図会」の閻魔堂記述部分も合わせてご覧頂けます。 |
◆ 「道中日記・津の記述一覧」 (塚本 明)
(一覧表作成協力:人文学部3年生・大西美紅さん、岡村沙紀さん、服部由貴さん)
資料
◆ 「伊勢参宮名所図會」 三重大学附属図書館蔵
(2009年12月 塚本 明)