三重大学人文学部フォーラム in 東紀州 2003:要旨

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第1回要旨
東紀州ことば探検

山本真吾

日本の方言学者にとって、東紀州は極めて魅力的な地域の一つです。これまでの長年に亘る多様な研究の蓄積を踏まえて、次の2つの課題を中心にお話ししてみようと思います。
(1)日本の方言における、東紀州の位置について
方言は、誰よりもその土地に住んでおられる方々が一番よく知っています。ここでは、そういった実態調査の報告よりも、全国的に見て、なぜこの東紀州のこと ばが注目されるのか、どういった点に研究者の関心が集まっているのか、について紹介したいと思います。
(2)古いことば(古文、古語)との関係について
方言に、しばしば古語が残っていることはよく指摘されることです。東紀州のことばは、いったい、どういった部分に古文、古語との接点が見いだせるでしょうか。東紀州のことばを軸として日本語の歴史を復元する作業に挑みたいと思います。

 

第2回要旨
地球環境保全を考える
-国際条約と市民-

西村智朗

21世紀は「環境の世紀」と言われています。ゴミ問題から地球温暖化まで我々の暮らしの中に「環境」という言葉はかなり浸透してきました。しかし一言で環 境保全と言っても対象は様々で、その対応も規模も曖昧模糊です。「将来世代によりよい環境を残そう」というかけ声はかかるものの、現実には満足できる成果 が上げられていないことも現実です。「行政は何をやっているんだ!」とか「企業も少しは考えろ!」と叫びたくなります。
地域の環境問題以上に、国際環境法という分野はそんな不満が激突するところです。隣の国のゴミが不法に投棄されたり、地球の反対側で自分の国が削減した量 以上の二酸化炭素が排出されるようなことがしばしばあります。果たしてそんなことで「よりよい地球環境」は実現するのでしょうか? 国際社会の法的枠組 (国際条約)はどうなっているのでしょうか? 環境保全のかけ声だけでは実現できない「何か」がそこにはありそうです。

 

第3回要旨
環境問題から地場産業を考える

松井 純

浜名湖のウナギ、琵琶湖、霞ヶ浦の淡水真珠など、かつて地場産業として地域を支えてきた産業が衰退・消滅しつつあります。三重県を代表する地場産業である アコヤ貝による真珠養殖も80年代の赤潮、90年代後半の感染症など多くの問題をかかえてきました。そうした状況から、三重県をはじめ全国的にも真珠の生 産が落ち込んでいます。そしていずれの地域も、これらの原因は「環境疲労」であると考えられます。
そこで以前からある「環境保護」、「環境保全」の考え方から、地場産業を取り込んだ「環境教育」を実践するなど、地域社会での新しい取り組みがはじまって います。このような動きは、後継者問題をはじめとする様々な問題に向き合うことや、新しい地場産業の創出などにも貢献しようとするものです。これからは、 多方面から「環境問題」や「地場産業」を考える必要があります。

 

第4回要旨
ラテンアメリカ人はホントに陽気か?

加藤隆浩

「ラテンアメリカ人はホントに陽気か?」 実は私もかつてはラテンアメリカ人=陽気説を無邪気に信じるひとりでありました。理由はありません。ただ、そう いうふうに言われていたからそのように考えていたまでのこと。しかし、かの地に実際に足を踏み入れ彼らと付き合いはじめると、どうも様子が違う。自分の頭 のなかではラテンアメリカ人(のイメージ)は底抜けに明るいのに、本物はそうではなさそう。それどころか、陽気さとはまるで正反対の孤独の深淵にどっぷり と浸かっているようなラテンアメリカ人さえ現れる始末。彼らに枕詞のようについてまわる「陽気な」は、本物のラテンアメリカ人を前にするとあっけなく吹き 飛んでしまう。これはいったいどういうことなだろうか。ラテンアメリカ人の一見すると陽気に見えるその「陽気さ」の正体は何か、また、そのもとに彼らのど のような論理が隠れているのか、など具体例を挙げながら考えてみたいと思っています。

 

第5回要旨
熊野と伊勢
-一遍・真教をてがかりに-

山田雄司

鎌倉時代、諸国を遊行した僧一遍は、熊野権現から「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との託宣を受けることによって他力本願の深 意を得たことから、時衆にとって熊野権現は非常に重要な存在となりました。一遍は、それ以降、日本各地の多くの寺社をまわって、人々に「南無阿弥陀仏」と 書かれた札を配り、極楽往生へ導きました。一遍は尾張まで来た際、伊勢神宮について意識していたものの、あえて参詣することはしませんでした。そして、弟 子の他阿真教(たあのしんきょう)になってからはじめて時衆は伊勢神宮に参詣しました。この背景には、熊野社と伊勢神宮とで「ケガレ」に対してのとらえ方 が大きく異なることがあったのではないかと思われます。
『一遍聖絵』『遊行上人縁起絵』をてがかりに、熊野と伊勢との違い、中世社会における「ケガレ」の問題などについて考えていきたいと思います。

 

第6回要旨
森林
~その持続的循環システムを社会へ~

舩岡正光

0世紀の活動で、無限の包容力を有する惑星と認識されてきた地球が実は有限かつ繊細なことが明らかとなってきました。私たちは何を規範に新しい持続的社会 を創ればよいのでしょうか。これに関し私は地球と最も長く共存関係を保ってきた樹木の中にすべての規範があると考えています。樹木は生育場所を変えること はできず、与えられた環境に対応し人類の生存レベルを超え長期間機能しています。今私たちに求められることは、住みやすいように地球を変えることではな く、地球のシステムにいかに社会のシステムをマッチさせるかです。化石資源が枯渇する前に、森林を起点とする分子レベルでの新しい物質の流れを社会につく り、今から植物系ルートで石油由来製品を少しずつ代替していきます。これによって、石油の備蓄が大幅に延びるだけではなく、その枯渇時点にも資源の流れを 植物系へと切り替えるだけで、混乱を伴うことなく高度な人間社会の維持が可能となるでしょう。