三重大学人文学部フォーラム in いなべ 2004 第1回報告

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9月15日(水)
19:00~20:00 講演
20:15~21:00 パネルディスカッション
講師: 尾西康充 人文学部助教授

「明治文学の光芒―樋口一葉と斎藤緑雨」

参加者:10名

 


[報告]

参加者は10名。しかし、尾西康充先生のご講演後、参加者の中には「10名で聞くには勿体無いお話でした」と言われた方もいました。参加者にそう言わしめ るほど、良いお話でした。講演中、会場に「ウンウン」という納得の声、「ヘエ~」という驚きの声が幾度も響きました。

講演は樋口一葉の日記を基にして、斎藤緑雨と一葉の人間像、そして二人の関係を解き明かすものでした。面白いエピソードがいくつも織り込まれていましたが、ここでは割愛せざるを得ないのが残念です。

尾西康充先生は、「樋口一葉が新5000円札に登場します」、というところから口を切り、徐に夏目漱石の現1000円札を取り出し、漱石を指差して「明治 天皇ご逝去のときの服喪の姿です」と解説。一葉と漱石? 実は一葉は漱石の兄とお見合いの話があったのだが、夏目家から断られたとのこと。実際には、書類 審査(?)の段階で夏目家から断られ、両者は会うことがありませんでした。

樋口一葉は明治5年山梨県の農家に生まれる。父は商才があり蓄えた金で武士株を買い、江戸に出て八丁堀の同心になる。いよいよこれからお家発展というとき に明治維新となり、武士は失業、一葉の家は没落。失意の父の死後、一葉は負債を背負い二人の妹を養うという厳しい生活を強いられた。当時女性が社会に出て 働くことは難しく、女子師範学校を出て教師になるか、針仕事をするか、妾になるしかなかった。学歴のない一葉は師範学校はむり、近視眼で針仕事は嫌い、妾 になる気はさらさらなかった(家が傾く前のかつての婚約者が妾になれと要求してきた)。一葉は自分で稼ぐしかなく、明治26年東京で一番地価の安い吉原遊 郭の裏手(=スラム街)で小さな荒物屋兼駄菓子屋を営む。

和歌、小説を勉強していた一葉は、美しい女性で文壇の中で取合いがあるほど引っ張り凧だった。明治27年から29年という短い期間に後世に残る大作品 (「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」)を書いた。他界は明治29年11月23日、24歳。今で言えば大卒後3年目。死因はスラム街で感染した肺結核。 一葉が文壇の中で一番信頼したのは、当時「嘲罵の毒筆」で恐れらていた斎藤緑雨で、「原稿のすべてを緑雨に託せよ」と遺言を残した。二人が互いに知るよう になったのは緑雨からの一葉宛の手紙であった(一葉の日記に引用されているこの手紙の面白さは、尾西先生の生の解説を聞くのが一番。緑雨の人柄が良く分か る)。

斎藤緑雨は明治元年に鈴鹿市神戸に生まれる。明治維新に斎藤家も没落し、父は東京に出て藤堂藩のお抱え医師となる。緑雨には小学校卒業の記録は残っている が、それ以上の学歴を示すものはない。彼は二人の弟を大学に行かせ、自分は文才を生かして評論活動をする。ところが緑雨の筆は、当時大学出の名だたる文 豪、夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、坪内逍遥らを、大学を出たが世間を知らないものとして、歯に衣着せぬ物言いで鋭く批評した。緑雨の毒舌で泉鏡花はノイ ローゼになったとの話。緑雨は一時森鴎外、幸田露伴とともに一緒に仕事をするが、その鋭い舌鋒故に、次第に文壇から孤立して行った。

そんな緑雨が密かに信頼していたのは樋口一葉であった。緑雨は、人は「にごりえ」を「熱涙もて書きたるもの」と評するのを笑い、「熱涙」のうらに隠れてい る一葉の「冷笑」を看破していた。一方、一葉は緑雨の涙なき「嘲罵の毒筆」に対して「おもひ余りて涙をうちにのみこみつつにくき異見もいふ事あり」と言 い、「嘲罵の毒舌」のかげに「涙」ありと見抜いていた。二人の信頼関係は、明治29年1月の緑雨からの一葉宛ての手紙に始まり、同年11月に一葉が肺結核 で死ぬまでの短い期間に急速に深まった(緑雨29歳、一葉24歳)。緑雨は10月に森鴎外に頼んで、一葉を青山病院に入院させた(病床の一葉の服は大変み すぼらしい。東京の樋口一葉記念館に展示)。そして、一葉は全ての原稿を緑雨に託した。二人は学歴こそなかったが、人の判断ではなくて自分の目で見て判断 し、人の心を見抜く目を持っていた。

斎藤緑雨も肺結核で明治42年、37歳で亡くなる。時代はやがて緑雨、一葉を取り残した。が、100年後の今日、彼らの文学は見直されている、と尾西康充先生は講演を結んだ。

尾西先生は終始座ったままで講演されました。その語り口調は早くもなければ遅くもなく、はっきり聞き取れ、参加者は講演内容に吸い込まれていました。講演 後、数多くの質問が出ましたが、先生は一つひとつに丁寧に答えられ、引き出し(抽斗)の多さに驚嘆しました。ここでは印象に残ったものを少し報告します。

二人の(感情面)の関係については、「緑雨と一葉は互いに好き合っていた。しかし、二人とも肺結核で、結婚までは考えなかったのでは。それに、緑雨は非・ 恋愛主義者だった」と述べ、緑雨が当時の文豪を鋭く批評した立場については、「緑雨は西洋からの輸入文化ではなくて、江戸文化を大事にしていた。その立場 からの批評であった。緑雨が孤立して行ったのは、一葉と違って、自分の文学を託すべき<民衆>を見出せなかったからだ」と解説されました。

最後に尾西先生は補足説明として、三重県内で発生した伊勢暴動を採り上げ、「弱者がさらなる弱者を責めたてる」この事件の内実を知った斎藤緑雨の次の言葉を披露されました:

剣をもってするのも 筆をもってするのも   強者はついに弱者を助けることなし

 

文責 友永 輝比古