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三重大学人文学部フォーラム in いなべ 2004 第2回報告
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12月15日(水) 19:00~20:00 講演 20:15~21:00 パネルディスカッション ※9月29日(水)延期分 講師: 岡野 昇 教育学部助教授 「「なぜ、学校へ行き学ぶのか」に答えられるか」 参加者:13名 |
[講評]
講演開始午後7時。講師の指示で、参加者は隣の席の人と左手で握手し、そのままの状態で、右手でジャンケンゲームを始めた。勝った人は右手で相手の握手し ている手の甲を叩き、負けた人は空いている右手の手の平でそれを防ぐ。会場の雰囲気は一挙に変わり、あちらでもこちらでも笑い声が起こり、参加者は互いに 打ち解けた。ゲームは他にも2つあった。参加者の中に小学生がひとりいて、彼女は大喜びだった。
「皆さんはゲーム中に笑いました。」と講師は言った。「失敗したときに笑いが起こるのですが、その笑いは変な笑いではなくて、お互いに笑えてしまうような 笑いです。ゲームに限らず、失敗を怖がらないでどんどん発表し、笑って関係をつくり変えていくことが大事なんです。」さらに講師は言った、「子どもが失敗 したとき、教える側は、子どもがどこでどうしてつまずいたかを学ぶことが必要です。そのことによって、失敗した側も教える側も共に学び合う関係ができてき ます。」
話題は本題のタイトル「「なぜ、学校へ行き学ぶのか」に答えられるか」に移った。この質問に教師や親御さんが答えられないと、子どもに学校の意味を教えられないことになる。でも、「答え」はない、とのことだった。
講師は、「なぜ」に答えるよりも、子どもからそんな質問が出てくる「学校」とそこでの「学び」のあり方を問題にした。学校へ行けば行くほど不登校が増え、 学校へ行けば行くほど暴力行為が増えている、という統計資料が示された。しかし、問題を起こす児童の数は就学児童の僅か1%で、後の99%に大きな問題が 潜んでいた。
学校へ行けば行くほど家庭での学習時間が少なくなり、月平均の読書冊数は、学校へ行けば行くほど少なくなり、高校生の70%以上は本を読んでいない。さら に驚くべき事実があった。日本の児童の数学・理科の学力レベルは世界46カ国中、上位に位置し、「学び」のレベルは、最下位に位置していた。数学の学力は 高いが、「嫌い・大嫌い」の割合は46カ国中、ワースト2。理科の学力は高いが、「嫌い・大嫌い」はワースト1。歴史に関して「覚える学習」と回答した者 は、日本91%、韓国54%。「学ぶ学習」と回答した者は、日本61%、韓国81%。講師は言った、「本当に学んでいないのではないか」、「「学び」から の逃避・逃走が起こっている」と。「学ぶことに対する虚無主義、冷笑主義が蔓延している」とも言った。
学力は高くても「学び」になっていないところに、講師は日本の教育の「交換動機」(学習を成績や学歴や就職等に交換する)の限界(知識レベルはあっても、 関心がない)を見て、それに変えて「目的動機」、「学ぶために学ぶ」ことの大切さを訴えた;「「学び」とは、(1)学んでいる「いま」と「ここ」をとても 大事にしている。いつかどこかで役に立つから学んでいるのではない。(2)面白そうだからとか、面白いから学ぶのである。(3)新しい自分に出会えるから 学ぶのである。そんな楽しい学びを子どもたちにやって欲しい。しかし、この学びは、自分一人で成り立つものではなく、他者や文化と交わり、人と人のつなが り、その意味を紡ぎ出し、新しい自分を育てていく、終わりのない自分探しの旅である。」
「学び」は子どもだけの問題ではなく、大人の問題でもあり、私たち大人にできることとして、次のことが指摘された。(1)子どもたちに学べと言う前に、私 たち大人が学ぶこと。学んでいる人=大人は輝き、生き生きしている。問題は、たとえば、国語の授業が先生にとって、面白くて、やりたくてやっているかどう かである。「今日の宿題は面白いね」とこちらから言えるかどうかである。(2)「文化の学習」から「学ぶ・学習という文化」を日本に根ざして欲しい。 (3)「学び」の回復と「学び合う文化」を創出して欲しい。
1時間の講演はここで終わり、休憩を挟んでパネルディスカッションに移った。しかし、参加者は講師からもっと多く学び取ることを求めた。講師は講演を続け た。「教育キーワードをめぐる誤解」と題して、「自立」「主体的・主体性」「個性」「かかわりあい」という言葉を挙げ、いきなり再び参加者にゲームをさせ た。講師は、参加者に床に座って立つようにと言った。参加者は一旦床に座ってから立った。次のゲームは、いすに座った状態から立つことだった。参加者はい すに座り、それから立った。次は二人一組のゲームだった。背中を合わせて床に座り、手を水平に伸ばし、二人で一緒に立つ。参加者は背中に相手の力を感じ、 バランスを取りながら立った。中には、立てない組もあった。次も二人一組のゲームで、講師から割り箸が与えられた。互いに人差し指で割り箸を支え、目をつ ぶったまま、割り箸を落とさずに動き回るものである。参加者は、自分の指先に相手の力と動く方向を察知しながら動き回った。一連の楽しいゲームが終わった 後、講師は言った;「自分の力でやりなさい、を教えることではなく、いろんなこととつながりあって、自分はいるんだ、ということ、そこを教えることが大切 なんです。床があって、いすがあって、相手がいて、立てるんです。」参加者は、「自立」は相互関係の中で成り立っていることを、言葉による説明ではなく て、遊びながら体で理解した。
「主体的」という言葉からは、AさんはAさんで主張し行動し、BさんはBさんで主張し行動する、ということをイメージする。一見「主体的」行為と見える が、そこには人と人とのつながりがなく、「我がまま」なのである。これが学級崩壊である。Aの主張を受け止めるCという受身になる人がいないと、人と人の つながりができない。家の中でも、学校教育現場でも、このつながりがない。受動的態度が弱い、つまり、「働きかけるかかわり」はあっても、「働きかけられ るかかわり」が弱いのではないか。
「個性」という言葉。人の個性は一定普遍のように思われがちだが、これも個人が置かれた環境によって変化する。高校のときに体育が得意で、体育系の大学に 入ってがっかりする学生が多い。体育の得意な人たちが周りにいっぱいいるからである。このように、「個性」は相手との関係によって生まれ、今の集団ではダ メでも、新しい集団では光ってくるものである。「他者との関係で変わってくる」、これが「学び」である。人間は、一人ではなく、つながりの中で、それを関 係的に読み取り、自分を変えていくものである。
「人と人との関係をつくるのは、大変なことですが、環境を丁寧に変えてやれば、子どもは変わります」、と岡野昇講師は締めくくった。実に楽しい楽しい講演だった。 (友永輝比古)
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