三重大学人文学部フォーラム in いなべ 2004 第4回報告

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12月22日(水)
19:00~20:00 講演
20:15~21:00 パネルディスカッション
*10月20日(水)延期分
講師: 野田 明 人文学部助教授

「アメリカ短編小説の世界
-やさしい英語と翻訳で読む-」


参加者 6名

[講評]

教材はヘミングウェイの“Cat in the Rain”(『雨の中の猫』)。英文120行の超短篇小説。参加者は、その場で短時間で読み切り、思い思いの感想を述べることができた。
教材の解説に入る前に、野田明先生は、ヘミングウェイの省略技法、「氷山の理論」を紹介した。1/8だけ出し、7/8は言わずに隠し、読者に想像させる、 というものである。作家が自分の知っていることを熟知していて、且つ、それが省略された場合、読者は隠されたものを感じることができる、というのがヘミン グウェイの主張である。
小説の舞台はイタリアのホテル。泊まっているアメリカ人は二人(夫婦)だけ。客の中に知り合いはいない。雨。アメリカ人の妻は2階の部屋の窓から外を見 ている。公園のテーブルの下で雨を避けてちぢこまっている一匹の猫を見つける。可哀想に思った彼女は、その猫をひろいに行くが、どこにも見当たらない。女 中が支配人の申しつけで、太った三毛猫をアメリカ人夫婦の部屋に届ける。筋はこれだけである。
「一見たわいないこの「お話」から、どれだけのことを読み取れるか」、というのが講師のテーマであった。氷山の隠れた部分を想像する手助けとして、講師 は、作中の単語や語句の繰り返し、人や物の呼び方(「彼女」、「それ」など)の変化、視点の変化(誰の目で、誰の視線に沿ってその場面をみているか)を、 克明に解説した。参加者は、講師の話の一つひとつにうなずいていた。
たとえば、小説の出だしに「戦争記念碑」という言葉が何度も出てくる。ヘミングウェイは、戦争で生殖能力を失った男の話を書いており、それとの関連で、講 師は、繰り返しのこの言葉は、作中のアメリカ人の夫の生殖能力喪失を暗示しているのでは、と語り、アメリカ人の若い妻が子猫を執拗に欲しがるのは、猫に赤 ん坊のイメージをダブらせているのではないか、と参加者の想像力を掻き立てた。その他、支配人、女中の人物像にも触れ、氷山の隠れた部分を大いに楽しませ てくれた。

野田明先生の講演は、『雨の中の猫』だけに終わらず、メルヴィルの長編小説『白鯨』との比較に及び、以下の3点が指摘された。
1)2つの作品にはさがし求めるものがある。ただし、簡単に見つけられるものではない。
2)何かをさがし求めるという行為は、自分を発見することにつながっていく。この手法は、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』に見られ、オイディプスは先王殺害の犯人をさがし求め、自分が犯人であったと同じに、父殺しでもあったことを知る。
3)『白鯨』では、船長は鯨を追っているつもりで、自分自身の心の悪を追っていた。『雨の中の猫』では、追い求めた「可哀想な猫」は赤ん坊の象徴であると同時に、アメリカ人の妻自身でもある。

パネルディスカッションに移り、参加者は、野田明先生の解説を基にして、短編小説『雨の中の猫』の行間に隠れた部分について、なぜアメリカ人の夫だけに名 前があるのか、アメリカ人の妻は身ごもっているのか、身ごもっていないのか、また、妻の精神状態はどうなのかなど、それぞれの思いを率直に自由に語り、中 には原題の“Cat in the Rain”の“the”は特定のものを指すことから、日本語訳の『雨の中の猫』の「雨」を一般的な「雨」ではなくて、特定の「雨」を表す訳がないものかと 考える方もいて、楽しい時間を過ごした。ひとつの教材を中心にして、大学の先生と市民が良い雰囲気の中で平等に語り合えたことは、フォーラムのあり方のひ とつを示すものであった。 (友永 輝比古)